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連載・特集

『生きて』 核物理学者 葉佐井博巳さん(1931年~) <6> 広島大工学部

胸患い2年遅れの卒業

  広島大が1949年に開学し、広島市千田町(現中区)にあった工学部へ翌年入学する。専攻は電気工学だった

 言われたことの暗記より、じっくり考えたい。技術者になろうと思いました。復興期ですから必要だし、大事にされていた。広島大なら親元から通える。工学部を選択したのは安易だったかもしれません。

 実は基町高3年の夏に角膜炎にかかり、医者から本を読むのを止められた。年が明けたら治ったと言われたが受験勉強は間に合わない。どうせ落ちるのなら倍率が高いところをと受けたのが、電気工学科(定員30)です。それが通った。自分がやりたいと思ったらできるんだ、と錯覚を起こしてしまった。

 (現南区翠にあり1年半通う)教養部のころは、発足したばかりの広島カープの選手らと玉突きをしたり、広島にはまだ数軒しかなかったジャン荘へ入り浸ったり。店主からは皆が楽しんでこその勝負だとか、人生においての機微も教えられましたが遊んでばかりいた。それでも単位を取り専門課程へ進んだ。

 卒業の半年前でした。健康診断を逓信病院で受けると、院長の蜂谷道彦さん(被爆体験記「ヒロシマ日記」を55年に刊行)にしかられた。「おまえは肺結核だ。気づかなかったのか」と。私の父は病院事務長をしたことがあるので幼いころから顔なじみでした。「大学には籍を置いて休め」との助言に従いました。

 同期が卒業した54年の5月、旧西条町の国立療養所(現東広島医療センター)に入院し、10月に手術を受けた。左肺の上葉だけ取るはずが全摘となった。結核は寝て治す、冬に雪が降っても窓を開けて空気を良くするという時代。「言うことを聞かない」とみられたが、動き回った。そうしたら早く元気になった。

 ただ、会社は採ってくれない。56年に卒業し、大学に残りました。まだ大学院がないから名前だけの研究科生です。すると同期が勤めていた応用理学教室を物理学の教授とけんかをして辞めた。私は電気が専門だが実験がある程度はできると推薦をしてもらい、9月に採用された。初めは教務雇い。そこから原子核研究の道に入ったのです。

(2015年11月19日朝刊掲載)

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