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連載・特集

『生きて』 核物理学者 葉佐井博巳さん(1931年~) <7> 原子核研究

全国討議で実験に傾注

  ビキニ被災を機に原水爆禁止の声が高まった翌1955年、原子力基本法が制定される。政府・産業界は原発の導入を打ち出した
 50年代半ばから原子核の関連講座が旧帝大を中心に設置されますが、研究は戦前からありました。陽子や中性子を結合させる「中間子」の存在を湯川秀樹さんが提唱したのは34年(49年にノーベル物理学賞)。理化学研究所や京都大は戦中に陸海軍と原爆開発も手掛けた。しかし、進駐した米軍はサイクロトロン(荷電粒子の加速器)を破壊した。基礎から研究が禁じられ遅れていた。

 私が原子核の研究に参加するようになったのは、58年に広島大工学部の応用物理学講座で助手となってから。教授の笠典生さんは九州大で早くから専攻していた。

 簡単にいえば、原子核の構造を突き止めるのが私らの研究の狙い。陽子を加速して原子核に当てると散乱したり、取り込まれたりする。原子核の性質を調べるため、広大では、コンデンサーと整流器を重ねたコッククロフト・ウォルトン型という小型加速器を使い、基礎実験に取り組みました(60年、現広島市中区千田町にあった工学部に設置)。

 エネルギーをどれだけ出せるのかが原子力工学。「平和利用」とも当時言われた研究には政府から驚くほどの予算が付いた(62年、茨城県東海村で臨界実験に成功)。しかし、原子核研究の先生方には原子炉開発にくみする考えはなかった。私は電気工学からいわば独学で研究に入り、実験そのものが楽しい。基礎物理は予算に乏しかったので共同研究が始まった。東京大農場にできた原子核研究所で寝泊まりし、議論を重ねました。放射線を電気回路で測定する装置も作っていきました。

  原子核研究所は55年、全国共同利用研として現西東京市に開設。戦後初の日本製サイクロトロンが設けられ、核物理学の拠点となる
 湯川さんらそうそうたる先生が議論に参加され、ぺいぺいの私も同席できました。理論と実験データを付き合わせる。私ら実験家は誤差にこだわる。小さいほど精度が高いわけですから。誤差を縮めるにはどうするか。自由な雰囲気の中で考え、実証する腕を磨いていきました。

(2015年11月20日朝刊掲載)

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