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連載・特集

『生きて』 核物理学者 葉佐井博巳さん(1931年~) <8> 大学人として

学生の訴えに触発され

 原子核の共同研究を進めていた1962年、広島大工業教員養成所助教授となり工学部から転籍した
 高度経済成長に入り、工業高が全国で増設されて教員の数が足りない。工業教員養成所は、8年間の時限立法で設立された3年制大学です(北海道大から九州大まで国立9校に61年設置)。研究も怠ったつもりはないが、5年間教えて戻ると今度は講師。起きたことは気にやまない性分なのか、降格も履歴と受け止めた。肩書で研究をするのではありませんからね。それでも今考えると、私は大変なことをしたんです。

 変則的な大学だったので卒業生は、工業科の教員免許しかない(広島大は371人が卒業)。戻った応用物理学は工学部の共通講座ですから化学や数学の先生もよく知っている。その人たちを総動員して夏休みに、教職に就いている卒業生向けに講習会を開いた。いずれ工業科が減る時代になるとみたからです。

 2年かけて夏季講習をして普通科免許を取れるようにした。つてのない広島県教委に飛び込み認めてもらった。卒業生は感謝してくれた。これは自慢していいと思っています。

 世の中に敏感な学生の訴えや見方には教えられました。紛争の時は随分むちゃなことを言い、暴れたけれど、感覚は素晴らしいとも思った。

 全共闘運動が吹き荒れた69年2月、広島大は教養部があった東千田町(現広島市中区)の本部からバリケード封鎖が始まり、8月に封鎖解除を県警に要請する
 本部への機動隊導入で学生たちの一部が(千田町の)工学部へ駆け込んできた。隊員の入構を止める間に裏から逃げていった。裁判費用のカンパもした。工学部長となり紛争収拾に当たった丸山益輝さんは権威を振りかざさず、学生を信用しようという私らの考えも聞いてくれた。

 経済成長の半面、公害問題が広がっていました。学生たちは、原爆開発も挙げて研究者の責任を追及し、「産学官」は金目当てだと批判した。今はどうでしょうか。大学が政府と一緒になり金になる研究を重視する。基礎的な学問がおろそかにされている。利益追求の研究は、表面的な豊かさにつながっても国民の多くが置き去りにされると思います。

(2015年11月21日朝刊掲載)

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