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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第1部 四国五郎 <1> わが青春の記録

「反戦」表現への執念 壮絶な日々 圧巻の絵

 懐かしさ漂う広島の街のスケッチが並ぶ。平日の早朝というのに、次々と訪れる人たち。故四国五郎(1924~2014年)の遺作を前に、会話も弾む。

 広島市中区で市民有志が年明けに開いた四国の小品展。古里への思いや反戦平和への願いを絵筆に託し、多くの人に愛された「市民画家」をしのばせる。  四国は昨年3月、89歳で亡くなった。同市内の自宅には絵画作品だけでなく、戦前から60年以上にわたって書かれた大量の日記帳や資料が残されていた。

 「これなんです」。長男光(58)が、茶褐色になった分厚い本を見せてくれた。辞書のようにずしりと重い。ノートを何冊もとじ、布張りで装丁している。表紙に手書きで「わが青春の記録」とある。その冒頭にこんなくだりがある。

  現在の生活のなやみの一つ一つをとりあげてみても戦争の影響が原因しないものはない。戦争と云うものを人間の生活から完全に無くさなければならない(略)この一冊のノオトに私は過去の私の歩いてきた道を書き止めておかねばならない
 「青春の記録」は千ページ近くに及ぶ。四国が、誕生から軍国少年時代、就職、従軍、シベリア抑留、復員、帰郷―と1949年までの壮絶な日々を、絵と文字で自叙伝のようにしたためていた。全ページに絵が添えてある。スケッチ風、挿絵風、素描風と圧巻の表現で当時の状況を今に伝える。

 「見れば見るほどこれを生み出した爆発的なエネルギーに驚かされる」。父の亡き後、しばらく手元に置いて目を通した光は息をのむ。巻末には戦地に赴く前、20歳の四国がしたためた遺書も大切に収まる。

 日記の記述などから、50年末までに、戦前や戦時中を振り返って一気に書き上げたらしい。「想像できないスピードと集中力で、つかれたように書いたのだろう。父は当時二十五、六歳。あまりにも過酷な人生」。光は在りし日の父を思う。

 四国は広島県椋梨(現三原市大和町)に生まれた。5人兄弟の三男。広島市で育った。44年に徴兵され、戦地へ。シベリア抑留を経験し、古里へ戻ったのは終戦から3年後だった。

 自宅で見つかった日記は徴兵された44年秋~50年夏が欠落している。「青春の記録」は、その間の出来事もつぶさに記す。従軍中やシベリア抑留中に隠れて書いたという「豆日記」やメモを参考にまとめたと、後に四国は語っている。

  私は毎日小さな手帳をとり出しては日記をつける。それだけがたゞ私のたのしみであり人間らしい気持の最後の據点(きょてん)である
 日記はたえることなくたんねんにこまごまといつわりなく書くべし 日記は床に入り消燈までのうすあかりで書くべし 日記は雪の原の小休止に指をあたゝめながら書くべし 日記は便所の中で書くべし 事実完全に個人としての時間、個人としてのいとなみは便所にしやがんでいる時間しかなかった。

 敗戦し、シベリアへ移動中、みんな帰国できると期待した様子や、日記をつけていた自分以外は「今日が何日何曜日かも定かではなくなる」との内容、大切な日記が没収されそうになった経験もつづっている。

 戦後は、広島市役所に勤めながら、詩人峠三吉らと活動した。画家としては母子像を終生のモチーフに、反戦・平和を訴える多くの作品を残した。広島の街のスケッチや「おこりじぞう」をはじめとする絵本や児童書、被爆体験記の表紙や挿絵、平和運動のポスターなど、頼まれれば「平和のためなら」と快く受けた。詩や出版物など絵と併せて、多くの文章も残している。

 「創作活動をするなかで、父はこの『記録』を何度も見返していたようだ」と光。「反戦反核のため将来にわたって書(描)き続けるための、自分が忘れないでいるための資料のような存在だったのではないでしょうか」  四国の教えで、小学校低学年から日記をつけ続けている光は、いま思う。「どうしてか分からなかったが、書いて表現することが日常になっている。父はそれをさせたかったのではないか」。「青春の記録」をめくるたび、あらためて父の「表現へのこだわり」を感じている。

 表現、記録することへの執念とも思えるエネルギー。それはどこから来ていたのか。原点は、70年前にさかのぼる。=敬称略(森田裕美)

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 ことしは戦後70年の節目。大きな犠牲を払い、それぞれが立った焼け野原で先人は何を思い、新たな時代への「志」を紡いだのだろうか。戦後芽生えた文化活動、社会運動の志を、中国地方ゆかりの人たちの歩みから見詰め直す。

(2015年1月29日朝刊掲載)

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