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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第1部 四国五郎 <2> 弟の日記

原爆への憎しみ原点 「死者に代わり描く」

 終戦3年後の1948年11月。シベリアに抑留されていた24歳の四国五郎は4年ぶりに古里の土を踏む。

 あゝ着いた帰った…と足をふみしめる(略)兄らしいと直感した男と克之らしいとこれも直感した少年が近づき私のさげている荷物の名札をみて“おゝ五郎”とよびかける(略)なんと云う喜劇(きげき)の一シーン 兄弟が互に顔を知らないのだ(略)戦争が生んだ歯ぎしりしたいような喜劇…
 広島駅に降り立ち、39年から戦地に赴いていた2番目の兄満と、従軍前にはまだ小さかった9歳年下の末弟克之と再会した様子を、手書きの回想録「わが青春の記録」に記す。

 だがそこに、すぐ下の弟直登の姿はなかった。5人兄弟の中で最も仲が良かった弟。戦地に赴く前にも一緒に生まれ故郷の椋梨(現三原市大和町)に出掛けて2人で絵を描こうと誓い合う、親友のような間柄だった。変わり果てた街を見ながら広島駅から自宅へと戻るバスの中、直登の被爆死を聞かされる。

 “畜生ッ!”腹の中の臓物の全部がぐらぐらとからみ合ってねぢれ合いなにもかも興奮が一所くたになって何でも握っているものをヘシ折ってしまいたい怒りがカッと湧き上がる(「わが青春の記録」)
 その直登も12歳から日記をつけていた。被爆し、亡くなる直前まで。

 45年8月6日の日記の冒頭には大きな字で「廣島大空襲さる 記憶せよ」。当時18歳。警備召集され、爆心地から約1キロの幟町小にあった臨時兵舎で被爆。左足に材木が刺さり、出血したまま逃げまどった様子が生々しく刻まれる。放射能に汚染された街で一夜を明かし、「少し破損しただけで済んだ」と記録する、爆心地から南方2キロ余りの自宅に友人の助けで戻れたのが7日夕。日記は痛みに耐えつつ振り返って書いたようだ。

 9日、「ソ聯 満州國(中国東北部)へ宣戦布告。(満州にいる)五郎兄さんは張り切っておられる事だろう」と、わが身をよそに兄を思う。終戦の15日には「今日は一度も警報が鳴らぬ。夕方からへんなうわさを聞く、事実でないことを祈る」。その翌日は放射線による急性症状か「腸の調子が悪くなる。四回も大便にゆく」と記す。

 兄との再会を夢にまで見たこともつづっている。

 下痢がひどく、日に日に弱っていく様子が伝わる日記は27日、ぷつりと途絶える。ゆがんだ文字で「今日は腹合が少しよいが 足が激痛す 朝食はおもゆ 晝(ひる)もおなじ 足がいたい 今日はがっこうへ行くのを中止」。日付が変わった28日未明、直登は帰らぬ人になった。

 直登の寫眞(しゃしん)をみて肖像画を一枚描く 直登のえを描いているといろいろ過去のことが思い出され胸が痛くなってくる。はらわたのにえくりかえるような怒りがもえ上がってくる 斗争心のにぶくなったときには直登のことを思い出して火の玉のようになろう!(「わが青春の記録」)
 「一九四五年(昭20)八月二十八日 火曜日 午前二時頃 苦悶の末 死亡(五郎)」。四国は弟の日記の最後にこう書き込み、生涯自身の日記とともに大切に保管していた。戦後間もなくから、峠三吉らと参加した詩誌「われらの詩」をはじめ、多くの著作物に弟の日記を紹介し、絵にした。

 「私は広島に住みヒロシマに生きる以外のことを考えることができなかった」。99年に約半世紀の活動をまとめた画集「四国五郎平和美術館」にそうつづる。「死んだ人びとに代わって絵を描こう。戦争反対・核兵器廃絶を。芸術になろうが、なるまいが…」とも。画集を編んだ池田正彦(68)=広島市中区=は「弟の死は、四国五郎の中で絵の意義づけが変わる大きな要因だった」とみる。

 死線をさまよい、ようやく戻った古里で向き合った悲劇。戦争と原爆への怒りと憎しみが、「平和画家」としての出発点となった。

 広島市内の四国の自宅に晩年描いた一枚の油彩画がある。「写生する兄弟」と題した絵には、よわいを重ねた四国と、軍服姿で18歳の少年のままの直登。原爆ドームを映す川面を背に、並んでスケッチしている。=敬称略(森田裕美)

(2015年1月30日朝刊掲載)

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