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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第1部 四国五郎 <3> 占領下の抵抗運動

勇気の証し「原爆詩集」 反核を冊子や「辻詩」に

 劫火(ごうか)の中を、よろめき進むような半抽象のシルエット。ちちをかえせ ははをかえせ―で知られる峠三吉「原爆詩集」初版の表紙は四国五郎の作。詩集は弾圧を恐れた出版社に断られ、急きょ私家版で出した。1951年9月28日の日記に記す。

 峠さんがたずねてきて氏の原爆詩集が出来たのをみせてくれる よく出来ている 表紙は一寸 感心出来ないがみひらきはなかなかよく刷れている。一冊80―(円)はすこし高いようだが これが広く売れてくれればよいと思う

 めくるとすぐに、峠の詩と四国の絵が一体となった見開き。「もう死んでいる母親へ/子どもが/よちよちと/水をはこんで/口に入れている/一時間あと通ったときも/まだやっている/八月六日/舟入町」。デッサン風の母子は全裸同様で顔も分からない。原爆が人間にもたらした悲惨を訴える。

 広島で始まった四国の戦後はまさに、峠と共にあった。四国の日記に2人の出会いについての記述は確認できないが、峠が亡くなった翌54年発行の「追悼集」に「たしか寒い季節“われらの詩”の創刊号の約束をして(略)五六人の集りに参加したとき」と回想している。

 「われらの詩(うた)」は峠が中心となり、49年11月に創刊したサークル誌だ。歌人深川宗俊、詩人増岡敏和をはじめ、市内外のさまざまな職場から詩を愛する若者が集い、被爆後の広島で花開いた青年文化運動だった。53年3月に峠が肺の手術で亡くなった後も同年11月の20号まで発行(7号は未発行)した。四国はほぼ毎号の表紙を担当。詩人としても、シベリアでの体験や被爆死した弟の日記を題材に作品を寄せている。

 夜峠さんのところえゆき詩の合評会をする

 保管されている50年8月以降の日記によると、峠が暮らす広島市営平和アパート(現中区)を小まめに訪ねたようだ。

 交流から「辻詩」も生まれた。日記にはしばしば「辻詩を描く」との記述がある。社会への批判を詩と絵のセットにし、街の辻々に張るから辻詩。峠や仲間の詩に即興で絵を付けたり家で描いたりして100枚は作ったという。

「(50年に)朝鮮戦争が始まってからは、作品と言うより反核闘争の手段になった」と、四国は後に述べている。

 50年といえば日本は占領下。朝鮮戦争で、トルーマン米大統領は原爆使用もあり得ると発言した。広島でも8月6日の「平和祭」が中止に追い込まれるなど、言論統制も厳しかった時代。壁や電柱に画びょうで張っては、警察が来ると剝がして逃げたという。広島市内の四国の自宅には、画びょう痕が見える6枚が残る。

 「占領下で朝鮮戦争反対や原爆反対を叫ぶには勇気がいった」。当時、広島師範学校予科(現広島大)の学生だった山岡和範(83)=東京都西東京市=は振り返る。学内で創刊した詩誌に載せた作品が峠の目に留まり、誘われて最若手のメンバーに。「恩師には峠たちと関わると血を見ると脅された」と苦笑いする。

 それでも「峠さんは穏やかで優しかった。他のメンバーも兄や姉のよう。アパート屋上で労働歌を教えてもらったり、そばで話を聞いたり。四国さんがシベリアや弟の話をしているのも耳にしたことがある」と、青春の一こまをたどる。

 ただ、活動には少し腰が引けていたという。「ストックホルム・アピールへの署名も恐る恐る。原爆詩集を広めるよう頼まれても、なんだか恐ろしくて、ごく親しい友人用に3冊預かっただけでした」。その山岡もやがて反戦や占領下の理不尽さを作品につづるようになる。

 教員となり上京した山岡は、詩作や組合活動を通じて平和の尊さを訴え続けてきた。「当時の社会情勢がそうさせた。大変な時代でも峠さんや四国さんたち広島の文化人は立ち上がった。それを忘れてはいけない」

 われらの詩の活動に同じく参加し、反戦反核を表現し続け、今月18日に89歳で亡くなった御庄博実(本名丸屋博)は昨年末、こう語っていた。「われらの詩があったから、詩人御庄博実がいる。四国さんにとってもそうだったと思う」=敬称略(森田裕美)

(2015年1月31日朝刊掲載)

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