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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第1部 四国五郎 <5> 未来へ

想像絶する惨状残す 原画が世界で心捉える

 母子の姿に平和への思いを託した油彩画、愛する古里広島のスケッチ、「おこりじぞう」をはじめとする絵本や児童書、被爆体験記の表紙や挿絵、さまざまな団体が発行するカレンダー、絵はがき…。四国五郎は、生涯にどれだけの作品を残したのだろうか。

 日記には連日のように「○○を頼まれて描く」「原画ができたので渡す」などと書かれている。1983年2月28日にこんな記述がある。

 高橋昭博氏が体験をテーマにした絵本を出したいのでその絵を私にということでTELあり

 同年夏、汐文社(東京)から出版された「ヒロシマのおとうさん」の話である。元原爆資料館長で2011年に80歳で亡くなった高橋と、四国は同じ広島市役所勤めで旧知だった。

 絵本は、高橋が爆心地から約1・4キロの校庭で被爆した当日の様子やそれを若い世代に語り続ける思いを文章にし、四国が絵で分かりやすく表現している。

 その後の日記には、制作の経過を簡潔に記しているだけだが、苦悩もあったようだ。絵本の後書きで、四国は、戦争やシベリアでの捕虜生活、原爆で肉親を奪われた体験に触れ、「なんとしても戦争を知らない世代の人びとにわかってもらえる絵を描かねばと考えました」とつづっている。

 ただ、想像を絶するきのこ雲の下の惨状を、子どもに分かるようにどう描くか、悩んだことも明かし、こう続ける。「絵本の欄外には、何千、何万人の屍体(したい)や、眼球の飛び出した男や、腹が千切(ちぎ)れ腸をひきずっている女や体中にガラスの刺さった人、水槽に首を突っこみ、槽外は白骨になった中学生、全身やけどでフグのようにふくらみ、男女の区別がつかない人たちが、うめき、わめきながら逃れようともがいていることを、思い描きながらページをめくってください」

 中区の原爆資料館には、四国が、高橋の被爆体験を描いた33枚の原画が保存されている。高橋から頼まれて84年に描いたものだ。縦約45センチ、横約50センチのスケッチブックに描かれた水彩画で、高橋は子どもたちに体験を話す時、紙芝居のようにして使っていた。時代が変わっても、原画をスライドやデジタル化して映し、証言を続けた。原画は「未来へ残すためきちんと保存してもらいたい」と02年、資料館へ寄贈した。

 「80年代は学校が荒れ、修学旅行生が被爆証言の途中に抜け出すこともあったらしく、これはもう視覚に訴えるしかないと思ったようです」。高橋の妻史絵(77)=西区=は振り返る。そこで力を借りようと四国の顔が浮かんだという。

 高橋は退職後も、亡くなる11年まで、広島を訪れる若者や外国の首脳らに体験を語り続けた。依頼を受けて海外にも出向き、証言した。四国の絵は常に高橋とセットで世界を巡り、多くの人の心を捉えた。

 高橋が訪れたイタリア・コモ市からは、絵のスライドを活用したいとの申し出があり、ドイツ・ハノーバー市は、学校などで配布するため高橋の証言と四国の絵を72ページの小冊子にした。国内では、修学旅行生が演劇にしたこともあった。

 絵を使いたいとの要請があるたび、高橋は四国に了解を求めた。すると「平和のために使うのなら、いちいち断りなんて入れなくてもいい」との答えがすぐに返ってきたという。史絵は「絵のおかげで証言が形あるものとして残り、広がっていくことを夫は喜んでいた」と感謝する。

 高橋の体験を描いた四国の原画は今、世界中からインターネット上でアクセスできる。マサチューセッツ工科大(MIT)のサイト「Visualizing Cultures」。戦後占領下の日本を論じた「敗北を抱きしめて」の著者で同大のジョン・ダワー名誉教授(歴史学)らのグループが運営している。

 05年、ダワーにこの絵を紹介し、サイトに解説文を寄せた広島市立大広島平和研究所教授の田中利幸(65)は、四国の絵を、ドイツの版画家・彫刻家ケーテ・コルビッツの作品に通じるものがあるとみる。「彼女は戦争がもたらした痛みや悲しみを怒りを持って作品にし、反戦のシンボルとして世界に普遍的に受け入れられている。同じ力を持つ四国さんが残した作品も、より多くの人の目に触れる活用が求められている」=敬称略(森田裕美)=第1部おわり

(2015年2月4日朝刊掲載)

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