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連載・特集

『生きて』 核物理学者 葉佐井博巳さん(1931年~) <11> 線量見直し(下)

先人の調査 活用も図る

  原爆放射線量を推定する計算方式「DS86」を日米合同の検討委員会は1986年に策定した。その後も、広島大グループは被爆試料を集め再評価に取り組んでいった
 「DS86」はスーパーコンピューターを駆使したんです。広島原爆でいえば、放出エネルギーをTNT火薬に換算して15キロトン(65年発表の暫定値「T65D」では11~13キロトン)とみて、中性子線やガンマ線のスペクトル(熱源項)と空気中の透過を計算し、中性子線量が低く評価されていたことを指摘した。放射線影響研究所(広島市南区)は新計算式で被爆者のがん発生率などを再分析し、国際放射線防護委員会(ICRP)の基準強化にもつながりました。

 とはいえ、疑問の解消とはならなかった。被爆建物に含まれるユーロピウム152を測定すると計算値と一致しない。爆心地から1キロくらいになると誤差が見過ごせなくなる。ウラン型広島原爆の威力は、米国が「ICHIBAN」計画で57年に爆発させたプルトニウム型の換算から引き出した。長崎とは地形も違う。机上の計算とも言えます。広島のデータが求められたわけです。

 私たちは、被爆直後の調査試料も発掘しました。当時は文理科大地学教室所属の長岡省吾さん(後に原爆資料館初代館長)と、学生だった秀敬(ひでけい)さん(後に総合科学部教授)が集めた岩石標本です。熱線の跡からさく裂地点を求めた。広島大理学部倉庫で87年、魚を入れる木箱に17箱分が残っていたのが分かった。

 退職していた秀先生を訪ねると、護国神社など採取した場所を記したノートも保存しておられた。爆心地からの距離が特定できる。中国が60年代に大気中で行った原水爆実験による放射性降下物の汚染を免れている。測定する上でも大変に貴重なんです。

 さらに、大本営調査団として入った仁科芳雄博士が理化学研究所へ持ち帰った砂を92年広島市へ寄贈してもらい、セシウムを測りました。こちらはペニシリン容器に密封されていた。白神社の建て替えで出土した瓦を含め、多くの人が協力してくださった。中性子誘導放射能の測定結果の発表を進めると、「DS86」を再評価する動きが日米両政府の関係部門でも起こったのです。

(2015年11月26日朝刊掲載)

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