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社説・コラム

『論』 大震災と「新たな喪失感」 心のケア なお途上にある

■論説主幹・佐田尾信作

 2年ぶりに宮城県と岩手県にまたがる三陸沿岸―東日本大震災の被災地を南から縦断した。随分イメージが違う。津波被害の大きかった地域ほど、かさ上げ工事で地形が変わったためだろうか。

 震災遺構として当面保存される宮城県南三陸町の防災対策庁舎の周辺もそうだ。以前は更地に取り残されていたのに、今回はうまく近づけず、車で案内してもらった岩手県宮古市の内科医熊坂義裕さん(63)も諦める。目的地の同県陸前高田市もまた様変わりし、工事車両が盛んに行き交っていた。

 標高66メートルの高台に昨年6月オープンした「陸前高田レインボーハウス」を訪ねた。2083人に上る震災遺児の心のケアを目的に、あしなが育英会が東北で営む三つの拠点の一つである。阪神大震災の被災地に構えている「神戸レインボーハウス」がモデルだ。

 スタッフの小川里奈さん(25)が「驚きますよ」と案内してくれたのは「火山の部屋」だった。そこには天井から何とサンドバッグがつり下げられ、暖色系の床や壁は倒れ込んでも大丈夫な素材。子どもたちが言葉では表現できない感情をぶつける空間だという。

 隣には「おしゃべりの部屋」がある。好きなぬいぐるみを手にして輪になり、1人の子の話を大人のファシリテーター(援助者)を含めて皆で聞く。小川さんは「ここに来る子どもたちは我慢しています。きちんとキャッチする姿勢を持った大人がいれば、心を開く可能性はあります」と言う。

 震災遺児の文集を開く。ある中学1年の女子は父親を津波で亡くして遺体も見ていないが、転校先の学校では明かしていない。休み明けに家族でどこそこへ行ったと談笑している級友たちを、うらやましく思う気持ちはある―。

 <でもそれはがまんしなきゃいけないので、がまんしています。それが大変というか、困っていることです>

 遺児には死別の後も、転校や引っ越しといった身辺の変化が起きて友だちが次第に少なくなる。自分に親はいないという実感も、幼い頃に比べてずっと強くなるという。「新たな喪失感」である。

 震災直後、「みんな一緒」と話していた地域が、今は「同じ」ではなくなった―。小川さんは育英会の新聞に、遺児家族の実感としてつづった。保護者の話を聞くことも多いが、次第に被災体験を話しづらくなっているという。

 体験は人それぞれ違う。「3月11日午後2時46分」には亡き人がまだ生きていたのだと思うと、黙とうはできないという人もいる。今の暮らしぶりも違う。仮設住宅を出る人も、とどまらざるを得ない人もいる。となれば、互いを気遣い話せなくなるのだろう。

 熊坂さんは震災後の東北で無料電話悩み相談「よりそいホットライン」を運営する団体の代表だ。「心のケアはこれからが正念場でしょう」と気を引き締める。

 たとえば生活環境の変化で、ドメスティック・バイオレンス(DV)が表面化してきた。仮設住宅など狭い空間で夫から妻への暴力があらわになる。あるいは夫と離れて暮らして初めて、あれは暴力だったと気付く。それも熊坂さんは氷山の一角とみる。電話一本かけるのも勇気が要るはずだ。

 宮城、岩手両県の被災地から集団移転による「まちびらき」のニュースが相次いで伝えられている。半面、被災者一人一人の心の内は容易にうかがい知れないのではあるまいか。

 思えば被爆70年を経てなお、同じ学校や職場、動員現場にいながら命永らえたことに負い目を感じる人はいる。手元に届いた「関千枝子 中山士朗ヒロシマ往復書簡」第1集(西田書店)を読む。2人はともに被爆者。ジャーナリストの関さんはあの日偶然学校を休んでいて、勤労動員中の級友たちと生死を分けた。作家の中山さんにこう書き送っている。

 <「命が助かってよかった」と素直に言えない原爆の生き残りの気持ち、何だろうと思います>

 今また未曽有の災害に遭った人たちの数十年先を思うと、気が遠くなる。ただ、生かされた人には記憶をつなぐ務めもあることは書き留めておきたい。

(2015年12月3日朝刊掲載)

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