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社説・コラム

『論』 フジタの戦争画 戦後70年を問い掛ける

■論説委員・田原直樹

 鬼気迫る、恐ろしい絵である。暗い画面の中、敵味方が折り重なって殺し合いをしている。軍刀や銃剣でとどめを刺す兵士の横で、断末魔の叫びを上げる者も。よく見れば日本兵は死んでいないようだが「アッツ島玉砕」の題名が示す通り、史実は全くの逆である。そのことを含め、戦争の怖さというものを伝える一枚だろう。

 藤田嗣治(1886~1968年)による戦争画の大作を東京国立近代美術館で見た。線香をたいて描き、完成した晩には描かれた兵隊の顔が一瞬ほほ笑んだという話まである。戦争のプロパガンダにいそしんだ当時の新聞が伝えるところではあるが。

 1943年に「国民総力決戦美術展覧会」の目玉として各地を巡回する。その迫力からか肉親が玉砕したのか、ひざまずいて手を合わせる人の姿が見られ、絵の前にはさい銭箱が置かれたという。傍らに画家自身が国民服姿で立ち、浄財が投げ込まれるたび、最敬礼してお辞儀をした。

 おかっぱ頭に丸いロイド眼鏡。藤田は20年代のパリで、乳白色の裸体画を描いて一躍、世界で最も有名な日本人画家となる。しかし軍の依頼で戦争画を描いたために戦後、非難を浴びて日本を追われた。その後、フランス国籍を得て戻ることはなかった。

 国立近代美術館が所蔵する藤田作品を全点展示している。先日は父親を描いた肖像画や肉声テープが見つかった。半生を描いた映画「FOUJITA」が公開中で、研究書の刊行も相次いでいる。

 画家の内面や実像が明らかになり、再評価が進むかもしれない。しかし戦後70年の今、なぜ藤田嗣治なのだろう。

 13日までの展覧会は、乳白色の裸婦から暗い色調の戦争画まで25点。とりわけ戦争画は接収した米軍から戦後20年以上たって「無期限貸与」の形で戻されたもので、そのうち藤田による14点の一挙公開は初めてである。

 39年、パリで日記につづっている。「私程、戦に縁のある男はない」と。  初めて渡仏した翌年に第1次世界大戦が勃発。有名になって帰国すれば日中戦争が始まり、海軍省嘱託として漢口攻略戦に従軍した。パリに戻ったところ、今度はナチスドイツの空襲に遭う―。

 さらにこの後、太平洋戦争を通して記録画を描いて軍部に協力したことが後半生を決定づける。

 つくづく時代に翻弄(ほんろう)された画家といえようが、藤田自身は戦争画に自信を持っていた。画面隅に記していた元号や署名を、敗戦後すぐ横文字のサインに書き直したという。「今までは日本人にしか見せられなかったが、今後は世界の人に見てもらうのだから」。祖国の勝敗にかかわらず戦争画、歴史画の名作を描いたとの自負があったに違いない。

 43年の「アッツ島玉砕」は戦争の醜さや悲惨にあふれ、反戦画とみる人も少なくない。軍部の意図を超えた作品といえるかもしれない。近年の研究で、パリ時代に触れたラファエロやドラクロワらの歴史画から構図などを戦争画に取り入れたことも分かっている。

 小栗康平監督、オダギリジョー主演の新作映画は、パリ時代と、戦争画を描いた太平洋戦争期の2部構成である。後半は戦中の農村での暮らしや習俗、自然に引かれていく日本人藤田に迫っている。

 鑑賞後に思いを強くしたのは、藤田は生涯を通じて「立派な日本人」であろうとしたのではないかということ。パリで日本人画家として名声を得ようと努め、祖国が戦えば丸刈りにし、画家として戦意高揚に精いっぱい尽くす。だが戦争に敗れた社会は、手のひらを返して画家を石もて追った。

 発見された肉声テープには都々逸を上機嫌で披露する声や、和食や日本酒を懐かしむ言葉などが収められているという。心は祖国にあったことを示している。

 晩年、画家は「日本を捨てたのではない。捨てられたのだ」と語っていたそうだ。日本を慕いながら愛されなかった悲しさが思われてならない。戦後70年という節目が暮れようとする今、藤田の絵は私たちの来し方を問い掛けているのではないか。

(2015年12月10日朝刊掲載)

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