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連載・特集

ある画家の嘆願 <上> 赦しを求めて 228通 要人の心動かす

 たたら製鉄で栄えた歴史を刻む山あいの町、安来市広瀬町布部。戦後間もない時期、この地に暮らす一人の画家が、日本人戦犯への恩赦を求めてフィリピンの要人へ嘆願書を送り続けた。終戦70年を機に再評価されている加納莞蕾(かんらい)(1904~77年)。嘆願は、軍国日本への深い反省に裏打ちされていた。(道面雅量)

 安来市加納美術館が保管する原稿や複写によると、49年を最初に当時の大統領エルピディオ・キリノに送った書簡が41通。日本人戦犯を収容していた刑務所の所長、キリスト教会連合会の書記長、在日フィリピン代表部公使への書簡などと合わせ、59年までに計228通を送った。73通の返書とともに確認できる。

 ことし11月半ば、莞蕾の四女で同館名誉館長の佳世子(71)は、初めてフィリピンを訪れた。キリノの遺族と会い、父の足跡をたどる旅。渡航前に電子メールでやりとりしたキリノの孫娘ルビー(62)は、佳世子を両手を広げて歓迎し、ルソン島北部にある一族の故郷ビガン市であったキリノ生誕125年記念式典に招待してくれた。

■「高いハードル」

 佳世子は首都マニラの博物館も訪れ、父の送った書簡の実物を確認した。「父の仕事は歴史に刻まれ、今に生きている」と意を強くした。

 一方でこの旅は、日本が残した戦争の傷に向き合う機会ともなった。太平洋戦争の激戦地となった同国の犠牲者は、フィリピン政府の算定で111万人に上るともされる。その中には当時、上院議員だったキリノの家族もいた。

 45年2月のマニラ市街戦で、自宅から子どもと避難しようとしたキリノの妻は日本兵に狙撃され、腕からこぼれた2歳の三女も銃剣で刺殺されたという。長女、次男も射殺され、ほかに親族5人も犠牲になった。ビガン市での記念式典で上演されたキリノの生涯を描くミュージカルでは、そのシーンも生々しく演じられた。

 キリノに日本人への「赦(ゆる)し」を願い出た莞蕾。「父が挑んだハードルは、どれほど高かったのか」。3月に父の評伝を刊行した佳世子は、あらためて痛感した。

 莞蕾は本名を辰夫といい、後に安来市の一部となる旧布部村の農家の長男に生まれた。松江市の島根県師範学校に進み、油絵に親しむ。地元の小学校に勤めた後、上京し、岡田三郎助に師事。4年後に帰郷してからは独立美術展への出展を重ねた。

 37年に日本統治下の朝鮮半島に渡り、日中戦争の従軍画家も務めた。45年夏、日本の敗戦とともに郷里に引き揚げる。そして49年、同じ島根県出身で面識のあった元海軍少将の古瀬貴季(たけすえ)がフィリピンの軍事法廷で戦犯として死刑判決を受けると、恩赦を求める運動に猛然と乗りだした。

 古瀬は終戦直後に帰郷した際、莞蕾に「減刑運動はしてくれるな」と言い残し、法廷では起訴された罪をすべて認めた。莞蕾はその潔さや責任感に心を突き動かされたようだ。

 キリノ大統領に宛てた最初の書簡は49年6月3日付。古瀬の人柄の高潔さに触れ、彼の助命を願うものだったが、20日後の第2書簡では「彼の個人的性格に基づく嘆願は誤りだった」とし、国民の一人として日本の戦争犯罪に対する反省と、平和への誓いを述べる。

■没頭 家計は窮迫

 10月30日付の第4書簡は、家族を失ったキリノの悲しみと怒り、憎しみに寄り添いながら、すべての戦犯に対する「赦し難きを赦す奇跡」を待ち望む思いをつづる。回を重ねるたび、内容は深まっていく。

 あらゆるつてを動員し、他の要人にも手紙を書き続けた莞蕾。運動に没頭して絵筆はほとんど握れず、家計は窮迫した。妻が五女を連れて家を出るなど、家庭生活に多大な影響が出ても、熱意は衰えなかった。

 53年7月、キリノは古瀬を含む105人の恩赦を発表した。佳世子によると、莞蕾は「日本人はこれから、一人一人の生き方でキリノに応えねばならない」と険しい表情で語ったという。(文中敬称略)

(2015年12月10日朝刊掲載)

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