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社説・コラム

『書評』 ≪原爆の図≫全国巡回 岡村幸宣著 占領下 反核意識の土壌

 原爆の図。丸木位里・俊が生涯をかけて描いたこの絵が、1950年からの4年間、全国各地を回った。会場は170カ所、見た人は170万人。米軍の占領下にあって、「原爆」を口にすることがはばかられた時代に、なぜ燎原(りょうげん)の火のように広がったのか。著者は原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)の学芸員。北海道・美唄炭鉱での展覧会の写真を偶然見たことをきっかけに、巡回展の知られざる全容を明らかにした。

 当時のラジオや大手新聞は沈黙した。しかし、地方紙や学生新聞は積極的に取り上げた。批評家の中には、裸体の表現を「エログロ」といい、誇張だと批判する声もあったが、観客は違った。大阪の老婦人は「この赤ん坊が焼けて死んだんや」と絵をなでて泣いた。みな画面の前でひそひそ語り合う。絵によって初めて、きのこ雲の下で何があったのかを知ったのだ。

 丸木夫妻は、会場で語るようになる。原爆反対の署名用紙が置かれた。いつしか、非合法だった写真が夫妻の元に届けられた。新資料に背中を押され、夫妻は連作に取り組み、ライフワークとなった。巡回展は芸術家と観客の垣根を壊し、大きな社会運動となって広がった。

 著者が突き止めた会場のリストがある。百貨店、劇場、公民館、小学校、大学、寺院、組合の集会室。当時、占領軍からにらまれることはご法度。それでも担当者は勇気を持って実現させ、観客も応えた。偉い。近年、公教育や行政の現場では原爆の図を見ることを「政治的」だとして避けるところも多いと聞く。落差にぼうぜんとなる。

 占領が終わり、原爆写真が解禁されると、絵が誇張だという批判はなくなる。現実は絵よりもすさまじかった。54年3月、ビキニ事件が起きる。久保山愛吉さんの死などを契機に、原水爆実験反対の署名は3千万人を超えた。本書を読んで、空前の署名が集まった理由として、巡回展が意識の土壌をつくったことに気付いた。開催地を丁寧に踏査した著者。ミステリーを読むような醍醐味(だいごみ)も味わえる。(永田浩三・武蔵大教授)

新宿書房・2592円

(2015年12月13日朝刊掲載)

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