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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第5部 栗原貞子 <1> 文芸誌「中国文化」

「新しい日」へ原爆特集 言論統制下 夫と創刊

 一枚のガリ版刷りが残る。粗悪な仙花紙。だが、つづられる言葉には、希望と力がみなぎっている。

 「本聯盟(れんめい)ハ文化ノ中央偏重ヨリ脱シ文藝(ぶんげい)振興ニヨリ中國(ちゅうごく)文化ノ建設ヲ期シ併セテ新日本建設ニ參與(さんよ)セントス」

 被爆の傷痕が生々しい1945年11月。栗原貞子(1913~2005年)と夫の唯一が呼び掛け、疎開作家の細田民樹らを顧問に広島で発足した「中国文化連盟」の綱領である。

 保管しているのは、歌人で民俗研究家の神田三亀男(93)=広島県府中町。同連盟が発行した機関誌「中国文化」に創刊号から作品を寄せ、栗原の家に泊まるほど親交が深かった。「混沌(こんとん)とした時代に栗原さんは大変な貢献をされた」と目を細める。当時、農業技術を指導する県職員で比婆郡久代村(現庄原市東城町)駐在だった神田。戦前から、栗原と同じ短歌結社の同人でもあり、「その縁で知り合い、執筆を頼まれた」と回想する。

 「中国文化」創刊に向け、栗原は神田を含め、広島県内の文芸に携わる人たちに投稿を呼び掛けていく。「御原稿をお待ちしてゐます」。神田の手元にある「綱領」には、貞子からの添え書きがある。

 46年3月、「中国文化」は産声を上げる。創刊号は「原子爆彈特輯號(ばくだんとくしゅうごう)」。戦後の広島でいち早く被爆の惨状を特集した雑誌の一つとなった。巻頭言で、発行人である唯一は、「新しい日が來(き)た。平和の日が來た(略)再び戰場(せんじょう)に赴かざらしめざる用意として創刊號を原子爆彈特輯號として世に送ろう」とうたう。A5判、48ページに、神田をはじめ延べ100人近くが詩や短歌、散文を寄せた。

 貞子と唯一にとって、多くの犠牲を払った敗戦は、まさに「新しい日」の到来だった。

 栗原は、広島県安佐郡可部町(現広島市安佐北区)の農家の次女として生まれた。大正から昭和初期までの自由な空気を知る世代。農業を手伝わずトイレに隠れて本を読むような文学少女だったという。可部高等女学校(現可部高)時代から短歌の同人誌で活躍し、卒業後は中国新聞の読者文芸面の常連に。甘い恋の歌などを詠んだ。

 転機は、アナキストである唯一との出会い。同郷の唯一は、関東大震災後、平民社運動に加わり、当局にマークされる存在だった。親に結婚を反対された栗原は家を出る。満州事変から間もなくのこと。抑圧と貧困と隣り合わせの生活が待っていた。四国を転々とした後、夫の実家に移り、32年には長男を出産するが、2歳を待たずして、消化不良で亡くしてしまう。

 その後2女をもうけたが、徴用されていた唯一が、現地で目撃した日本軍の残虐行為をバスの中で知人に話したのを乗客に密告され、40年に起訴された。それでも夫が秘匿した数少ない禁断の書を読み、権力支配のない平和な社会を夢見て、ひそかに反戦詩を書き続けた。

 45年8月6日を迎えたのは、当時居を構えていた、爆心地から4キロの安佐郡祇園町(現広島市安佐南区)。3日後には隣家の娘を捜して市中心部へ。

 「中国文化」の「原子爆彈特輯號」に栗原は、当時の様子をうたった「悪夢」と題した12首の歌と、後に国内外で知られることとなる詩「生ましめん哉(かな)―原子爆彈秘話」を寄せた。

 編集後記にこう書いている。「こうした極端に物資の缺乏(けつぼう)し、交通状態の悪い時、雑誌發行(はっこう)と云(い)ふやうな仕事を始めて私たちはしみぐと生みの苦しみを味(あじわ)つた。危(あやう)く健康と家庭を破壊すると云ふ程度にまでこのために私達は精力を費(ついや)した」

 その熱い思いが届いたのか。創刊号は3千部を完売したといわれている。

 しかし、時は言論統制の厳しい占領下。栗原が神田に宛てた手紙からは、プレスコードによる検閲を恐れていた様子が伝わる。「創刊号も注意を受けた」として「この種の悲惨なる情景を描いたものは削除になる虞(おそ)れが充分にある」「原子爆弾のものは検閲の関係上打ち切らなくつてはならない」。

 ようやく迎えた「新しい日」への大いなる期待。だが、闘いは幕を開けたばかりだった。=敬称略(森田裕美、石井雄一)

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 詩人として平和運動家として思想家として多くの著作を残し、「行動する原爆詩人」「反核の闘士」として語られる栗原貞子。戦前から晩年までに残した言葉をたどりながら、その志に迫る。

(2015年12月16日朝刊掲載)

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