戦後70年 志の軌跡 第5部 栗原貞子 <2> ヒロシマ婦人新聞
15年12月17日
「女性とは」問い続け 封建的社会 鋭く批判
「女が〓會(しゃかい)と共にあるという自覺(じかく)と同時に〓會を動かして行く力を持つた時はじめて婦人と子供の權利(けんり)は守られていくでしよう」
1950年2月1日発行の「ヒロシマ婦人新聞」の社説が、変革を訴えている。30代の栗原貞子が、あえて旧姓の「土居貞子」として編集発行人を務め、49年11月から50年2月までに、5号で終えたミニコミ紙である。46~48年に発行した「中国文化」やその後継誌「リベルテ」(48~49年)に続く「新聞」は、紙齢は短いものの、「女性」である栗原の主張にあふれた紙面になっている。
女性の団結を促す「婦人團體(だんたい)協議會を作れ」、搾取を批判する「配給の米も喰(た)べさせず サービスガールを酷使」などの記事のほか、「學校(がっこう)建築をめぐり町會と町民が對立(たいりつ)」「婦人會館をめぐり絶えぬ醜聞」「官廳(かんちょう)に復活した虚禮(きょれい)」といった見出しも並ぶ。
占領下の言論統制の影響だろう。原爆関連の記事は少ないが、地域の政治や日々の暮らし、文芸などさまざま話題を通して、行政や経済界など権力を監視し、批判すると同時に、封建的な社会が生む男女の非対称性にも疑問を投げ掛ける。
第3号のコラムは「未亡人會」による「未亡人證(しょう)」の配布がテーマ。「未亡人が特權意識になつたり同情の押賣(おしうり)になつたのでは自ら男女同權を放棄するようなもの」と主張。その上で「未亡男等と云(い)う言葉は聞いたためしがない」とし、「未亡人」という言葉についても人権を無視していると断罪する。そして「婦人の中でもつとも悪條件(じょうけん)と戰(たたか)つて生きていると云う誇りと勇気を持つた時はじめて未亡人の生きて行く道が開かれ、同情やレンビンとしてでなく權利として未亡人の要求が要求としてとりあげられる」と結ぶ。
当初はタブロイド判1枚の両面だったが、5号では4ページに。「これだけ取材をし、発行するのは本当に大変だったと思う」。自らも86年から20年近くミニコミ紙「月刊家族」を発行した、ひろしま女性学研究所(広島市中区)主宰の高雄きくえ(66)は驚く。6年ほど前、広島女学院大(東区)の栗原貞子記念平和文庫にひっそりと収められていたこの「新聞」と出合い、栗原の持つフェミニズム性に注目し、研究を続けている。
実は、戦前戦中の栗原は、妻であり母であり女である自分自身の生きづらさを短歌にしている。なぜ文芸作品ではなく、ミニコミだったのか。「社会への疑問や批判精神にあふれ、短い言葉や文芸作品には収まらなかったのだろう。生々しい直接的な言葉で表現せずにいられなかった時期だったのでは」と高雄は推し量る。
「ヒロシマ婦人新聞」は5号まで発行した後、夫の唯一が発行する「廣島平民新聞」と統合。安佐郡祇園町(現広島市安佐南区)の自宅を拠点に、50年2月、「廣島生活新聞」として再出発する。その改題1号にはこう記す。「經營(けいえい)の脆弱(ぜいじゃく)面を〓化(きょうか)すると同時に男性的〓野(しや)の偏向をさけて婦人への呼びかけを行い實質(じっしつ)的な男女同權の獲得により新〓會への一歩前進に努力する所存である」。権力への監視の目は厳しさを増し、54年の175号まで月3回の発行を続けた。
ヒロシマの加害性を指摘した詩「ヒロシマというとき」(72年)で知られる栗原。だが、高雄は言う。「あの加害性を描き得たのも、栗原が女性である自分の存在を問い、社会を問い、戦時には銃後を支えた女性の複合性や、抑圧される者の思いを知り得ていたからではないか」
「ヒロシマ婦人新聞」が発行されたのは、ウーマン・リブの波が日本に届くずっと前のことだ。どんな人が読み、何部発行されたのか。女性たちはどう感じたのか―。記録は残っておらず、研究は緒に就いたばかりだ。=敬称略(森田裕美)
(2015年12月17日朝刊掲載)