戦後70年 志の軌跡 第5部 栗原貞子 <3> 「生ましめん哉」
15年12月18日
失われぬ人間愛 表現 感情・体験 むき出しに
「いつでも夢を」。広島市南区にある居酒屋には、俳優吉永小百合がしたためた色紙やスナップ写真が飾ってある。「なぜ来たのってお客さんに聞かれると、原爆詩を朗読する吉永さんや、栗原貞子さんの詩のことを話すの。それが私なりの平和活動」。店を営む小嶋和子(70)はそう語る。
栗原の代表作「生ましめんかな」。小嶋はその中で生まれてくる赤ん坊のモデルだ。1945年8月8日夜、爆心地から1・6キロ、広島貯金支局(現広島市中区)の地下室で小嶋は産声を上げた。詩は、若い女性が産気づき、居合わせた瀕死(ひんし)の「産婆(さんば)」が取り上げる様子を描写する。
栗原は当時、爆心地から4キロの広島県安佐郡祇園町(現安佐南区)にいた。8月下旬、近所の女性からこの話を聞き、創作したと後に回想している。
「暗い地下室で生まれた赤ん坊とは何だったのでしょうか。(中略)原爆の廃墟(はいきょ)のなかから世界の平和を求めてやまないヒロシマが生まれたのです」。栗原は、反核詩画集「青い光が閃(ひらめ)くその前に」(86年)の中でつづり、後の著作でも繰り返し説明している。
反戦、反核の思いを込める栗原作品の原点と言える詩。「原爆によってすべてが失われたけれども、人間の愛情だけは失われていないことを確かめました。そして人間の愛情を支えとして、総破壊の中から起ちあがって再建して行く以外にはない」(59年8月21日付中国新聞への投稿「『原水爆時代』を読んで」)。人間愛に根差した栗原の信念がにじむ。
小嶋は高校生の時、その境遇が明るみに出て脚光を浴びた。「何を期待されているんだろう」。20代の頃はそう悩んだ。そんな時、栗原からは「元気で生きていることが何より。みんなに生きる力が湧くから」と声を掛けられたという。
一方で栗原は社会に対し「二十数万の死者たちのなかから、不死鳥として再生したはずのヒロシマは、和子さんのように美しく成長したであろうか」(70年「どきゅめんとヒロシマ24年」)と、問い続けた。
「生ましめん哉(かな)」は、「中国文化」創刊号(46年3月)で発表。その後、教科書に掲載され、翻訳もされた。栗原自身も国際会議などで思いを語る。82年の国際文学者平和会議(旧西ドイツ)では、「世界の文学者がそれぞれの想像力によって、文明を擬装した野蛮の根源に迫り、一日も早く核時代を終わらせなくてはならない」と訴えた。
平和会議に同行し、後に「栗原貞子全詩篇(へん)」(2005年)を編んだ中央大名誉教授の伊藤成彦(84)=神奈川県鎌倉市=は「反戦、反核の表現を貫いた詩人。海外でも生き生きとしていた」と懐かしむ。
ただ、国内外での評価とは対照的に、広島では「異端視されておりました」と栗原は語っていた。アナキストだった夫唯一の存在もその一因だろう。反戦、反核の詩は、プロパガンダだと矮小(わいしょう)化された。被爆作家で、栗原と親交があった原爆歌人正田篠枝の遺稿からも当時の空気がうかがえる。
<知らぬひと栗原貞子を悪く云(い)ふわれは黙(もだ)して良きを書かなむ>
思いが伝わらないもどかしさは、栗原の作風に変化をもたらす。戦後、短詩型文学を否定する桑原武夫の「第二芸術」に共感し、短歌と決別。次第に感情や体験をむき出しにした詩が増えていく。
「私にとって詩とは他者と断絶した閉鎖的な思考の表現や呪文のような謎ときや、言葉あそびではなく、世界中のすべての人間的な根源に語りかけ核時代に生きる人間として、ともに人間のハートの鼓動を確(たしか)めあいたい」(「青い光が閃くその前に」)
文芸評論家で筑波大名誉教授の黒古一夫(70)=前橋市=は「原爆文学が白眼視され、原民喜や大田洋子、正田篠枝たち被爆作家の不遇の死を目の当たりにする。そんな中で、文学と社会との関係をより強く意識していったのではないか」と分析する。
「文学者が書斎で書いておればよいという考え方が、いかに文学を空疎な実感のないものにして来たのでしょう」(「原水爆時代」を読んで)。栗原は、国家や社会に対する怒りを真っすぐ表現し、自らも行動する希有(けう)な文学者となっていく。=敬称略(石井雄一)
(2015年12月18日朝刊掲載)