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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第5部 栗原貞子 <4> 平和運動 「加害者」の反省

胸に 反戦・反核 信念を貫く

 「行動する詩人」と称される栗原貞子は、文芸との「車の両輪」として反核・平和運動に力を注いだ。

 1959年9月。原水爆禁止広島母の会を結成する。「60年安保」の前年。日米安保改定をめぐる対立が激化し、原水禁世界大会が保守陣営から攻撃を受けるなど「嵐の中の大会」と言われた。試練の年、栗原たちが立ち上がる。正田篠枝、日詰しのぶ、山口勇子、小西信子、森滝しげ…。戦後広島の運動史に欠かせない女性たちが会に名を連ねた。

 敗戦で自由と民主主義を手にしたはずが、米ソの核軍拡競争、日米同盟の強化と、時代は栗原の願いとは逆方向へ進む。「市民の根源的な平和の願いは(略)安っぽく騒々しい平和の掛け声の中に埋没し、やがて朝鮮戦争によって完全に裏切られてしまった」。61年発行の同会の機関誌「ひろしまの河」には、当時の状況に対する憤りがにじむ。

 「ひろしまの河」は、栗原の編集で61年6月創刊。第1号は母の会について、「それぞれの思想や立場にちがいがあっても、原爆によって象徴される徹底した非人間性こそすべての悪の根源であり、人間性を大切にすることが平和と愛の始めであると言う点でしっかり一致している」と記す。

 森滝の次女春子(76)=広島市佐伯区=は「栗原さんはメンバーの中で若手だったが、はっきりものを言い、本質を見抜く鋭さに母も共感し、尊敬していた」と記憶をたどる。「ひろしまの河」は、短歌や詩、評論、体験記、ルポなどを掲載しながら、原水爆禁止への願いを発信し続けた。

 だが、原水禁運動は61年のソ連の核実験再開により混迷を極めていく。「いかなる国」の核実験にも反対する立場と、社会主義国のそれは容認する立場の溝。母の会にもさまざまな考えがあったようだ。黙っていられなかった栗原は、62年に会を離れる。

 ほかのメンバーには狭量に映ったのだろう。栗原が脱けた後の「ひろしまの河」には、「ソ連の核実験を支持するような人たちとは共同行動をすることは出来ぬと会を脱会した方がありました(略)文字の上で叫ぶことがいさましく、こぶしを振り上げることが社会を変えてゆくとは思えません」との記述もある。

 一方の栗原は、「平和運動は本来、一人一人の心に宿るもの。だが、それが組織になったとき、一生懸命になる人ほど傷つくような気がしてならない」。64年に中国新聞の取材を受け、そう答えている。

 母の会を離れても動くことをやめなかった。60年代には、ベトナム反戦やYWCAの活動に参加するように。「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」の主張や、アジアなど海外の人がどう日本を見ているかに触れるうち栗原は気付く。

 「それまでの原水禁運動、反戦運動が被害者の運動だったのに対して、被爆国日本の基地が、ベトナム戦争の基地として使われ、それをゆるしている日本国民も又、加害者であるという新たな視点に立つことによって被爆者も軍都広島の市民として侵略戦争に協力した加害者であったと言う反省をもたらせた」(79年、詩集「未来はここから始まる」)

 海外の核被害者にも目を向け、核実験に抗議する原爆慰霊碑前での座り込みにも参加し続けた。

 90年12月、栗原のある論考が、当時常任理事を務めていた広島県原水禁のニュースに載った。タイトルは「問われるヒロシマ―被害と加害の複合的自覚を」。ところが、原爆被害の実情を伝えることこそ使命と考える理事から反発を受け、栗原は常任理事を降りる。

 当時、編集責任者で事務局長だった横原由紀夫(74)=佐伯区=は「ヒロシマを看板にして深く思考せず、言行不一致の人が多い中、孤立しても信念を貫く人だった」と振り返る。今も安保法制反対などの運動を続ける横原自身は、栗原の言葉をよりどころにしているという。

 その後も栗原は、自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣(91年)などに抗議し、護憲の声を上げ続けた。

 詩人である栗原にとって運動とは何だったのか。「汗やほこりにまみれてこそ、汗やほこりにまみれて生きている人々の生活を知ることが出来るのでは、ないでしょうか」(59年8月21日付中国新聞への投稿)。幾多の体験を経て、栗原は「思想」を一層深めていく。=敬称略(森田裕美)

(2015年12月19日朝刊掲載)

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