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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第5部 栗原貞子 <5> ヒロシマの思想 

被爆地から連帯訴え 原発や再軍備に警鐘

 「人類は呪われた核エネルギーに決別し、核文明から非核文明への決断の年として昭和五十年を新しい文明への入口の年としたい」。被爆から30年、栗原貞子が反原発を宣言した論文が残る。

 栗原は、中国新聞社が1975年に募った懸賞論文「昭和50年代への提言」にこの論文を応募。選外だったが、当時編集局長として審査に当たった、元広島市長の平岡敬(88)=広島市西区=は内容が気になり保管していた。

 「当時は公害が社会問題となり、世の中ではクリーンなエネルギーとして原子力をむしろもてはやしていた時代。福島第1原子力発電所事故後のいま読むと、その先見性の高さを感じる」と平岡は語る。

 戦後、高度経済成長を遂げた日本。70年代になると電力需要が高まり、「平和利用」との修辞で原発建設が相次ぐ。栗原は、そうした動きへの危惧を明確に打ち出した文学者の一人だ。

 75年2月、東京の市民グループ「原爆体験を伝える会」が開いたセミナーの講師に招かれた際には「いわゆるエネルギー源としての核による新しい被曝(ひばく)者ができつつある」と発言した記録も残っている。また、原発事故を予見し、「平時においても、局部的にヒロシマ・ナガサキが現出するであろう」(78年「核・天皇・被爆者」)と警鐘を鳴らした。

 「危険を知らせる炭鉱のカナリアのように、栗原さんの思想は社会に先行していた」。広島文学資料保全の会顧問で広島大名誉教授の水島裕雅(73)=千葉県東金市=は、栗原をそう評価する。さらに「戦争とは何かというテーマが彼女の中にはずっとあったのではないか」と語る。

 冷戦時代に米ソが核軍拡を競う中で、日米の同盟関係は強化され、日本の再軍備が進む。それに目をつぶり、被害を強調して「平和」をうたう被爆地の姿に、栗原は違和感を抱く。

 きっかけは、日本YWCA幹事だった故吉村〓子(ひろこ)との出会い。吉村は70年に米国であったYWCAの総会に参加し、そこで、中国や韓国の人たちから「原爆は日本の軍国主義の侵略から解放してくれた。何がヒロシマですか」と言われたという。その話に触発されて栗原が72年に作った詩が加害責任を明確にうたう「ヒロシマというとき」だ。

 後に栗原はこう記す。「広島・長崎への原爆投下は、人道上、国際法上許すべからざる犯罪である。しかしその絶対性は、その誘発を許した国民の責任やアジア諸国民への加害責任を不問にしたり相殺したりすることはできない。被害と加害の複合的自覚に立つとき、初めて他国民間の連帯が可能になる」(92年「問われるヒロシマ」)

 この出会いを境に栗原は創作や平和運動に加え、「語る」活動にも力を注いでいく。全国での講演や詩の朗読活動は、2005年に92歳で死去する2年前まで続いた。

 栗原の死から3年後。直筆原稿や創作ノート、蔵書など膨大な資料が、遺族から広島女学院大(東区)に寄贈された。同大は図書館に「栗原貞子記念平和文庫」を開設。蔵書は手に取ることができ、その他の資料も研究目的などで閲覧できる。

 だが、栗原研究は途上だ。全詩集はあるものの、栗原が著した評論集や機関誌への寄稿、講演録などを通じてその思想を体系的にまとめたものはない。原爆文学を長年研究している文芸評論家で筑波大名誉教授の黒古一夫(70)=前橋市=は「地元でもっと研究されてもいい」と強調する。

 没後10年がたった今も、生涯を懸けた栗原の訴えは色あせていない。

 「戦争は、まず有事法からはじまります。政府は機密保護法をつくりまして、国民の言論の自由、思想の自由を徹底的に締めつけ、そして何も知らせない、何もいえないような状態にして、戦争をはじめます」(「問われるヒロシマ」)

 特定秘密保護法や安全保障関連法が成立し、きな臭さも漂う。栗原なら何と言うであろうか。=敬称略(石井雄一、森田裕美)

 連載「戦後70年 志の軌跡」は今回で終わります。

(2015年12月22日朝刊掲載)

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