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設計者は地元建築家 被爆の遺構「旧広島銀行銀山町支店」 豊田氏遺品から確認

 広島市の繁華街で被爆に耐えた建物「旧広島銀行銀山町支店」(現中区)の設計者が、戦前の広島を代表する建築家、豊田勉之(べんじ)氏(1891~1959年)だと分かった。岡山理科大(岡山市北区)の研究者らが豊田氏の遺品などを基に突き止めた。原爆で壊滅した市中心部で、戦前の地元建築家の作品の遺構が確認されたのは初めてで、歴史的価値が高まりそうだ。(水川恭輔)

 旧銀山町支店は1937年、広島合同貯蓄銀行(現広島銀行)の本店として建築。鉄筋3階建ての古代ギリシャ風の意匠が、繁華街で威容を誇った。爆心地から約1・2キロで、被爆時は広島東警察署に貸与していた。爆風で天井や窓は壊れたが、全壊は免れた。木造庁舎が全焼した広島県が8月7~19日に臨時庁舎とし、救護活動の調整や食糧放出などの対策拠点となった。

 50年に返還され、広島銀が支店を開設。88年に建て替えた、現銀山町支店が入るビルの一部にモニュメントとして保存されている。市が96年に刊行した「ヒロシマの被爆建造物は語る」に掲載されたが、設計者は「不詳」となっていた。

 豊田氏の関わりは、岡山理科大の李明(りみん)准教授(建築史)と、石丸紀興・元広島大教授(同)が断定した。孫の木村浩男さん(60)=東広島市=たち遺族が保管していた資料を2012年から調べ、戦前の履歴書に「呉銀行及広島合同貯(原文ママ)銀行ノ嘱託技師トナリ両行ノ本店及支店ヲ建立ス」などの記述を見つけた。貯蓄銀行本店完成時の写真3点も残されていた。

 李准教授によると、市中心部で被爆に耐えた鉄筋建物は全国展開の金融機関などの支店が多く、大半が東京、大阪の建築家や建設会社の設計。一部の学校校舎は市職員が関わったが、地元建築家の活動ぶりを伝える遺構は確認されていなかった。

 李准教授は「旧銀山町支店は戦前の広島の都市景観に、地域色を刻んだ貴重な遺構だ。豊田氏の設計とされる建物は東広島市などにもあり、県内の街並みのつながりにも思いを寄せてほしい」と期待する。原爆資料館(中区)は「研究成果を参考にしたい」としている。

豊田勉之(べんじ)氏
 1891年、呉市生まれ。広島県立広島中(現国泰寺高)中退後に東京中央工学校で建築を学んだ。1924年に呉市初の建築事務所を開き、呉銀行本店や呉商工会議所(いずれも建物は現存せず)を設計。旧県醸造試験場(現酒泉館、東広島市)と竹原書院図書館(現竹原市歴史民俗資料館)も手掛けたとされる。59年死去。

(2015年12月28日朝刊掲載)

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