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原爆ドームかいわい 祈りの場に共鳴あふれる 原爆ドーム・厳島神社登録20年 広島

 被爆地の象徴、原爆ドーム(広島市中区)。復興した都心にあって、市民や国内外の旅行者に、核の惨禍と平和の尊さを伝え続けている。そんなドームにまつわる逸話や、共鳴するメッセージが、平和記念公園かいわいにはあふれている。ぶらり歩いてみた。(和多正憲)

■8月6日通り

 原爆ドームから平和大橋までの元安川東岸の約600メートルには、「8月6日通り」という愛称がある。2004年、デルタの川沿いの通りに名前を付けるプロジェクトを市民団体が企画。実行委員会で公募し、有識者を含む選考会で決めた。

 団体の隆杉純子代表(55)=佐伯区=は「外国人にも分かりやすいように日付の名前にした。もっと市民に呼んでもらいたい」。

 一方、こうした市民のまちづくりの動きに呼応して、通り東側にある市道の歩道約600メートルを市が08年までに整備した。被爆前にあった旅館や民家の位置を赤、緑など5色の敷石で再現している。

■被爆門柱

 ドーム正面玄関そばの元安川沿いに、立派な「ベンチ」の形をした御影石がある。道行く人たちが腰掛け、あの日の惨禍を想像したり、川面を眺めたり。ドームの前身の広島県産業奨励館の門柱だったようだ。

 長さ170センチ、幅60センチ、高さ35センチほどの御影石。座面部分は、つるつるだが、2本の溝があり、端が欠けてもいる。川沿いに並ぶほかのベンチに比べると、いびつだ。

 市の担当者は「証拠はないが、原爆で倒壊した同館の一部だろう」。

 奨励館には、正面の西側と、裏口の北側に門があった。うち北側の門柱1本は、立ち入り禁止の敷地内に直立している。溝があるのも含め「ベンチ」とうり二つ。西側の1本が被爆後に置かれた、と考えてよさそうだ。

■平和の灯

 「平和の灯(ともしび)」の炎が一年で最も力強く燃えるのは、原爆の日の原爆投下時刻前後だ。

 午前8時に平和記念式典が始まった後、市の委託業者がガス量を調整し、段階的に上げる。8時15分の黙とう、広島市長の平和宣言、こども代表の「平和への誓い」の間は、いつもの20倍に。

 「KAKKIN」(旧核禁会議)などでつくる委員会が1964年に建設した。建設趣意書には「核兵器絶滅まで燃やし続けよう」とある。

 では、世界中から核兵器がなくなったら「平和の灯」は消えるのか―。「一日も早く消える日が来るのを目指すが、平和の理念は永遠にともり続ける」と解釈するのは管理する市緑政課。「灯は平和の象徴。世界から核兵器がなくなっても、争いがなくなるまで消すことはない」

■浄財箱

 原爆慰霊碑の献花台の中央部に、約40センチ四方の鉄製の「浄財箱」がはめ込まれている。被爆70年の一年は、原爆の日前後を中心に、およそ700万円が寄せられたという。

 市平和推進課によると、100円玉、10円玉に交ざって、千円札や、核兵器保有国の米国、中国をはじめとした海外の硬貨も。2重の鍵で厳重に管理し、週3回、市職員と警備員が回収している。

 中国新聞の記事によると、1952年に慰霊碑を建立後、周辺に小銭が投げ入れられたため、市が木箱を設置したという。70年ごろ、鉄製になったとみられる。浄財は被爆体験の継承などの平和行政に役立てている。

■バウムクーヘン

 おなじみの焼き菓子「バウムクーヘン」は1919年3月4日、ドイツ人菓子職人カール・ユーハイムが、日本で初めてドームの前身、広島県物産陳列館で販売した。

 第1次世界大戦で捕虜として今の中国・青島から日本へ強制連行され、似島(南区)の収容所にいたユーハイム。陳列館であった収容者の「作品展」で母国の焼き菓子を販売し好評だったため、日本永住を決意したという。22年に洋菓子店「ユーハイム」の日本1号店を横浜に開いた。

 同社の広報担当は「ドームが最初の販売場所と言うと驚かれるが、当時の出品目録も残っている」。日本記念日協会(長野県佐久市)は、3月4日を「バウムクーヘンの日」に制定している。

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原爆ドーム
 一部鉄骨を用いたれんが造りの3階建て。チェコ人の建築家ヤン・レツルの設計で、1915年に広島県物産陳列館として完成。33年、県産業奨励館に改称した。96年に世界遺産登録。遺産範囲は敷地内の0.39ヘクタール。景観維持のため、平和記念公園周辺の42.7ヘクタールをバファーゾーン(緩衝地帯)に設定している。

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(2016年1月1日朝刊掲載)

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