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社説・コラム

『論』 「浜通りの50人」は今 古里への帰還 なお道険し

■論説委員・下久保聖司

 めでたいはずの初日の出も郷愁を誘っているだろう。福島第1原発事故の影響で今なお約10万人が避難生活を強いられる。多くはかつて福島県東部、太平洋に面した「浜通り」で暮らしていた。その地では水平線から朝日が昇る。

 原発から約5キロの浪江町請戸で漁業を営んでいた鈴木幸治さん(62)の目にははっきり焼き付いている。家族と避難した先の福島市は盆地で日の光は尾根から差し込む。「どうしても故郷と比べてしまう」。同じようにもどかしさを感じる人はいるに違いない。

 鈴木さんと知り合ったのは事故からの1年を追う連載の取材だった。年代も職業も異なる10市町村の被災者の証言を集め、定点観測する「浜通りの50人」に協力してもらった。「3・11」から5年の節目が近づく中、被爆地広島の新聞社として福島の現実を伝え続ける必要があるのではないか。そんな思いで昨年末、再び福島を訪ねた。

■「戻らない」増

 浪江町に一時立ち入りする鈴木さんの車に同乗した。防犯の検問ゲートを数カ所くぐって町の中心部へ。約2万1千人の全町民は国の指示で避難を続ける。瓦が崩れたままの家もあり、首輪が付いた野良犬の群れにも遭遇した。事故直後に見た野良牛を思い出す。

 風景で変わった点といえば、あちこちに仮置きされている黒い袋だ。除染した土などを詰め込んでいる。岩手県や宮城県とは復興の中身もスピードも違う。放射線との闘いは先が見えない。

 港町の請戸地区に足を運ぶと、約1800人が暮らしていた面影はない。鈴木さんをはじめ多くの人が津波で家を失った。海風のおかげで放射線量は比較的低く「避難指示解除準備区域」の位置付けだ。「帰還困難」「居住制限」の両区域とは様相は異なるが、生活再建の道は遠く険しい。

 漁業者は隣の南相馬市などに母港を移した。東京電力の賠償金があるにせよ、市場に出回らない試験操業ではやるせない気持ちだろう。鈴木さんは漁業を断念し、仲間の後押しで町議になった。

 浪江町の計画では、国が避難指示解除準備、居住制限の両区域を解除する来年3月の住民帰還を目指す。宅地の除染は思うように進んでいないが、町が毎年行う住民アンケートでは常に2割弱が「戻りたい」と答える。一つの希望に違いない。ただ「戻らないと決めている」は当初の3割弱から5割近くに増えた。

 町外に家を建て、再出発する人はいる。鈴木さんもそうするつもりだ。一方で多額の賠償金で生活が派手になり、身を持ち崩した被災者もいる。「時間は人の気持ちを変える。仕方がない。でも国や東電には事故を忘れることを許さない」と鈴木さんは言う。被災者の悩みや苦悩は増している。あの飯舘村の人たちも。

■長時間の被曝

 原発事故までは畜産と稲作を柱とする山村だった。ここでも村民約6千人の大半が避難を続ける。うち約350人が身を寄せるのは福島市郊外の工業団地の一角にある仮設住宅だ。村婦人会長の佐藤美喜子さん(64)と再会した。

 「太ったでしょ。牛を飼うのも農作業もできず体がなまってしまって」。ただ声には張りがある。集会所の管理人を任されている責任感からだろう。仮設住宅に多いお年寄りの悩み相談も受ける。

 村が急ぐ住民帰還をいぶかる向きが強い。通院や買い物はどうするのか。農業を再開するには風評被害が気掛かりだ。

 佐藤さんは村に多かった大家族が引き裂かれたことを憤る。自身も長男や事故後に生まれた孫と離れ離れになった。仮設住宅の仲間も「もう元の家族には戻れないだろう」。若い世代は自分のペースで生活を始めている。除染が完了しても、被曝(ひばく)リスクの線引きは難しい。

 放射線の影響を受けやすい子どもの健康については「浜通りの50人」の連載でも目を向けた。小学生の一人娘がいる母親(31)にあらためて話を聞くと、思い詰めている節が分かった。「このまま福島で子育てを続けていいのでしょうか」と逆に問われた。

 県は事故当時18歳以下だった約38万人に2度にわたり甲状腺検査をした。幸い娘に異常は見つからなかったが、昨年11月までにがん確定は115人に上った。県の検討委員会はチェルノブイリ原発事故と比較し「今回は放射線の影響とは考えにくい」との立場だが、言い切っていいのだろうか。福島のような低線量で長時間の被曝はおそらく例がない。県外避難の子どもが今も1万人を超す現実を行政は重く受け止めるべきだ。

■原発回帰嘆く

 2015年国勢調査の速報値が昨年末発表された。原発立地の大熊、双葉に加え浪江、富岡の4町は「人口ゼロ」。全域避難で、ある程度予想できた。ただ目の当たりにするとショックは大きい。

 大熊、双葉町は除染土などの中間貯蔵施設の受け入れを決めた。処分場を容認した富岡町は、搬入路となる楢葉町とともに、国から計100億円の交付金を受ける。

 「どこかが引き受けないと福島復興は進まない。ただ物には頼み方がある」。富岡町を離れて暮らす北村俊郎さん(71)は憤る。住民説明会で環境省が場所選定のプロセスなどを示さなかったからだ。

 異色の経歴を持つ。事故当時、電力会社や企業でつくる社団法人日本原子力産業協会の参事。自戒を込めて書きためたエッセーは、700編を超した。いわゆる「原子力ムラ」の知人にも送り、情報の透明化を求めてきた。

 だが国や業界の体質はどこまで改善されたのだろう。原発事故は決して「収束」していない。汚染水対策は進まず、廃炉もこれからだ。なのに原発回帰のアクセルを踏み込む。再稼働同意は福井県の関西電力高浜原発で3例目。インドへの原発輸出も決まった。

 福島から怒りや嘆きの声が上がるのは無理もない。「原発を進める方には仮設住宅に来てほしい。同じことが私たちの前で言えますか」。佐藤さんは問い掛ける。

 被災者には「もう5年」ではなく「まだ5年」が実感だろう。再び核の被害者を出さないためにも事故を風化させてはならない。被爆地広島も寄り添い続けたい。

(2016年1月3日朝刊掲載)

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