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連載・特集

緑地帯 深作欣二とその周辺 一坂太郎 <5>

 40年余り前に作られた「仁義なき戦い」全5部作は近年、「反戦映画」と評されることがある。

 たとえば、第3部「代理戦争」のラスト。暴走した子分の死を悼む広能(菅原文太)の苦悩に満ちた表情と原爆ドームが交互に映し出され、「戦いが始まる時、まず失われるものは若者の命である。そしてその死は、ついに報われたためしがない」うんぬんのナレーションがかぶる。脚本を書いた笠原和夫は1927(昭和2)年生まれで、大竹海兵団の2等兵曹として終戦を迎えた戦中派だ。

 一方、30(昭和5)年に生まれた焼け跡派の深作欣二監督も、戦争にこだわる。たとえば第2部「広島死闘篇(へん)」で、ヒットマンの山中(北大路欣也)が警察に追い詰められ、拳銃自殺する場面。笠原の脚本では「拳銃の銃口をこめかみに当てがい、力一杯引金(ひきがね)を引く」のだが、実際の映画では銃口を口にくわえ、引き金を引く。山中は、特攻隊に行き遅れた軍国少年の成れの果てという設定。深作が「こめかみ」を「口」に変えたのは、戦時中、南方で餓死寸前の日本兵が、そのやり方で自決したからだという。

 ただ、脚本家も監督も「仁義なき戦い」を、頭から「反戦映画」として作ったわけではあるまい。彼らの心の中に無意識のうちに影を落とす戦争体験が、自然と作品中に現れた結果だと思う。

 江戸時代初め、大名家には「お伽(とぎ)衆」がいた。平和な時代しか知らない若殿様に、自分の戦場体験を聞かせるのも仕事だ。戦いの悲惨さも説いただろう。いま、「仁義なき戦い」にも、そんな役割が生まれてきたのかもしれない。(萩博物館特別学芸員=下関市)

(2016年1月12日朝刊掲載)

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