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社説・コラム

天風録 「子を思う母の死」

 歌人の中城ふみ子が60年ほど前に詠んだ一首。〈遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ〉。乳がんに侵され乳房を切除するも31歳で力尽く。3人の子へのいとおしみと無念が胸に迫る▲わが子をいとおしみつつ逝った母がここにも。あの過激派組織が占拠するシリアの街で戦闘員となった息子に持ちかける。「一緒に逃げよう」。死なせたくない、この地獄から救ってやりたいとの一心で勇気を奮って▲ところが親の心、子知らずであった。あろうことか息子は、逃亡を唆されたと組織に伝えてしまう。やがて指導部から公開処刑を命じられるや、言われるままに数百人の住民が見つめる前で銃の引き金を引いたという▲何ともおぞましい。母の悲嘆のほどは想像を絶する。それでも銃口向ける子の行く末を、最期まで案じたのではないか。それが母親というものだから。母の血に手を染めた息子は、その「死」をどう受け取っているか▲湯川遥菜さんと後藤健二さんが殺害され、まもなく1年。残された肉親の悲しみはまだ癒えていないだろう。一方、遠い中東ではきょうも、多くの母親がいとおしい存在を失うまいと、胸に抱いているに違いない。

(2016年1月14日朝刊掲載)

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