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ビザ発給 命のため 杉原千畝NPO理事 長男の妻美智さん 人の世話 報いを求めず

 第2次世界大戦中、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)から逃れる多くのユダヤ難民にビザを発給した外交官、杉原千畝(ちうね)氏(1900~86年)。政府の意に反して決断した理由は何だったのか―。ホロコースト展開催に合わせて広島市を訪れたNPO法人「杉原千畝命のビザ」(東京)理事で長男の妻、美智さん(77)に話を聞いた。(山本祐司)

 「助けないと、この人たちに明日はないと知っていたはず」。そう当時の杉原氏の心中を察する。ナチス・ドイツのポーランド侵攻を機に開戦した翌年の1940年7月。独自に入手した情報などから、駐在していた東欧リトアニアの首都(当時)カウナスの領事館に押し寄せる難民の未来を懸念していた。

 日本の通過ビザを求める難民と、発給を拒む政府の間で苦悩した様子は晩年の手記に残る。「苦慮、煩悶(はんもん)の揚句(あげく)、私はついに人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐(おそ)るゝことなく職を賭(と)して忠実にこれを実行し了(お)えた」。汽車で離れるまでの1カ月間、発給し続けたビザは、リストにあるだけで2139人分に上る。

 家族も支えてくれた。現地では日本人は自分たちだけ。相談を受けた妻幸子(ゆきこ)さんは「懐が広く、細かい事にこだわらない」性格で背中を押した。当時3歳の長男弘樹さんも「助けてあげよう」と幸子さんに勧めたという。

 47年の帰国後、杉原氏は外務省を退職。音読みした「センポ・スギハラ」の名は世界中のユダヤ人には広がったが、国内ではつれない反応だった。「他の軍属もユダヤ人を助けようとしたので杉原だけが特別でない」「日本人がユダヤ人を差別していたわけではないので、彼がとりわけ命を救ったと言えない」

 本人も、ビザについて家庭で話すことはなかった。63年に弘樹さんと結婚した美智さんが、この事実を知ったのは80年代後半。「もの静かで質素な義父」と思っていただけに驚いた。

 危険を顧みず勇気を持って決断した背景として、美智さんは二つ理由を挙げる。日本の敵国にはならないとみたポーランドのユダヤ人には、柔軟に対応してよいと考えた▽20代を過ごしたハルビン(現中国)で学んだ「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」という自治三訣(さんけつ)の言葉―だ。

 「欲望を満たすため人を殺す戦争やテロは今も続き、核兵器の脅威もある。義父も求めた平和な世界をつくるため、人間の限られた命を大切にすることが第一。義父の発給したビザを記憶にとどめてほしい」

    ◇

 杉原氏と、アンネ・フランクの生涯とともに、ホロコーストの歴史をたどる「勇気の証言―ホロコースト展」は28日まで、広島市中区のNTTクレドホールで開かれている。無料。

(2016年1月25日朝刊掲載)

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