×

社説・コラム

社説 自主避難へ賠償命令 「救済格差」に重い一石

 東京電力福島第1原発の事故から、間もなく5年。被災者の生活再建はいまだ道半ばだが、日本全体では関心が次第に薄らぎつつあるのは否定できまい。その中で、救済の在り方に一石を投じる司法判断が出た。

 事故直後に、福島県内から京都市に自主避難した元会社経営者の家族が東電を相手取って損害賠償を求めた訴訟である。おととい京都地裁は夫と妻について、3千万円余りの支払いを命じた。自主避難への東電の賠償責任を、裁判所が認めたのは初めてとみられる。

 仕事を失い、不眠症やうつ病を発症したのは原発事故との因果関係がある、と認定した。さらに住み慣れた古里から地縁のない土地への転居によるストレスへの慰謝料を含んでいることも注目できる。

 国が避難を求めた区域から逃れた人と、それ以外から自主避難した人たちとの間には救済の格差が明らかに存在する。福島県の内外に今も約1万8千人が自主避難していると推定されるが、東電からの賠償は大幅に抑えられてきた。ただ被災者からすれば、その線引きの基準があいまいに映っているはずだ。

 この判決でも避難以前に住んでいた場所の放射線量の推移などから、自主避難に関する賠償の期間は事故翌年の2012年8月まで、とした。その区切り方が妥当かどうかも意見が分かれよう。さまざまな点で、各地で相次ぐ同種の訴訟に影響を及ぼすことが考えられる。

 そもそも原発事故の損害賠償をめぐる流れは複雑である。まずは住民と東電が直接交渉し、不調の場合は国が用意する裁判外紛争解決手続き(ADR)で合意を図る。そして住民の側がなお不服なら裁判を起こす―。今回の訴訟の原告は粘り強く訴え続けた結果、地裁判決で勝ち取った賠償はADRの段階で示された額の3倍近い。

 それが少なからぬ意味を持つのはなぜか。国の原子力損害賠償紛争審査会が示した指針を盾に東電が自主避難への一律支給を基本とするからだ。だが京都地裁の判断は違う。指針も類型化された目安にすぎず、個別の実情に応じて賠償額を考えるべきだ、というものである。

 原発再稼働に前のめりの政府が将来の事故の賠償方法を再検討しているさなかに、新たな判例が生まれた格好にもなる。

 現実には経営悪化を恐れる東電は、このところ賠償額が膨らむのを露骨に警戒している節がある。例えば町ごと避難を余儀なくされた福島県浪江町の住民たちが慰謝料の増額を町ぐるみで求めた申し立てに対し、ADRの和解案すら拒んでいる。まして自主避難への冷淡な姿勢は今後も容易に想像できよう。

 だからこそ救済格差への問題提起といえる判決を東電も国も重く受け止めてもらいたい。

 むろん自主避難といっても事情と思いはさまざまだ。賠償や支援のありようをひとくくりに語れない面もあろう。ただ3・11がなければ慣れぬ土地で苦労して暮らすことなどあり得なかったことは忘れたくない。

 自主避難者に関しては自治体による住宅支援の打ち切り方針が相次ぐなど、ただでさえ厳しい状況に追い込まれつつある。私たちが、身近にいる被災者の暮らしにあらためて思いをはせるきっかけにもしたい。

(2016年2月20日朝刊掲載)

年別アーカイブ