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『今を読む』 マーシャル諸島の被災者たち 「避難島」は自立を目指す

■中京大社会科学研究所特任研究員・中原聖乃

 「メジャトはきみがいた頃とはぜんぜん違うんだよ」

 2010年8月、わたしは太平洋の小さな島嶼(しょ)国マーシャル諸島の首都マジュロを久しぶりに訪れ、かつて滞在したメジャト島在住の男性とばったりと出会った。メジャト島はクワジェリン環礁の中の一つの小島であり、ロンゲラップ環礁ゆかりの人々の「避難島」になっていた。

 ロンゲラップ環礁の人々は米国による1954年3月1日のビキニ環礁水爆実験で被ばくし、放射能で汚染された故郷を離れることを強いられた。以来、メジャト島で集団避難生活を送り、故郷で除染やインフラの整備が行われた今もなお、島にとどまり続けている。

 首都へ遊びにきた男性は緑の増えた島の様子を生き生きと語ってくれた。首都のロンゲラップゆかりの人の自宅には、島で作られたさまざまな保存食が蓄えられていた。ゆかりの女性は「大阪のおばちゃん」の「あめちゃん」のように、洋服のポケットからそんな保存食のココナツキャンデーをひょいと出してくれた。援助物資や缶詰ばかり食べていたかつてのメジャト島の記憶が拭いきれないわたしにとって、様変わりした島を想像するのは難しかった。

 メジャト島行きの機会が巡ってきたのは2013年8月だった。207人が住む島には植林したココヤシ林やタコノキ林がいたるところにあった。男性たちは共同で漁労に精を出し、干物にする作業に追われていた。女性たちは男性にパンノキの実の収穫を指示して発酵保存食を作っていた。くだんのココナツキャンデー作りやココヤシジュースの採取も行われていた。

 家庭で作るものも、援助物資の小麦粉とサラダ油だけではなく、ココナツの果肉を入れてココナツの風味がほのかに香るクッキーやケーキを作るようになっていた。教会に納められるものも、缶詰からココヤシの葉で編んだ籠に入った大量の魚に変わっていた。視界のどこかに必ず豚の姿が入り、インタビューのさなかにもわたしのスカートの裾を突っついてきたのだ。

 この変化は、避難当初は疎遠だった近隣の島々との関係性が生み出されたからにほかならない。広く漁労が認められると、魚をとる面白さを味わうことができるようになった。地道な植林活動はココナツオイルの原料・コプラを生産し、食用の残りは飼料にして豚も増えた。儀礼の習慣に適した豚を近隣の島と交換することも可能になった。

 被ばくから62年を経た今、避難島にすぎなかった島は地域社会に一つの地位を占めつつある。島で生産された保存食のほとんどが島外の子どもや親たちに送り届けられ、マーシャル全土に居住するロンゲラップゆかりの人々のネットワークもあらためてつくられつつある。米国に移住した人は「メジャトは私の帰る場所だからね」と言っていた。

 社会を形成しているのはモノのやりとりをはじめとする「贈与関係」であるという考え方がある。メジャト島の人々の日常的な取り組みは、「贈与関係の再構築」と捉えることができるだろう。

 マーシャル諸島には弱者からの援助の要求を断ってはいけないという決まりがあり、ロンゲラップの人々は被ばく者という弱者として援助を受ける権利を持つ。しかし、援助される者は社会の中での地位が相対的に低い。地位向上のためには自らの資源を他者に分配しなければならない。

 ロンゲラップの人々は社会をつくる基本である贈与関係で対等な地位を得るため、他者に分配するモノを生み出す基盤として「生活の場」をつくり出しているのである。除染されインフラの整備された故郷に引かれつつも、メジャト島にとどまり続ける理由はまさにそこにある。社会の再建とはハード面だけではなく、生活の場の「関係性の構築」というソフト面が大切であると、わたしはメジャト島の例を見てつくづく思う。

 本稿が活字になる頃、わたしはこの島にいるはずである。住民主導や住民参加という言葉などほとんど浸透していない小さな小さな島で、人々は生活の場を創造する確かなステップをまた一歩進めているにちがいない。

 65年岩国市生まれ。専門は文化人類学、平和学。著書に「放射能難民から生活圏再生へ」「核時代のマーシャル諸島」など。名古屋市在住。

(2016年2月23日朝刊掲載)

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