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シベリア 辛酸の日々 抑留4年 広島の96歳 富樫さん証言

寒さ・栄養失調・事故…仲間次々失う

 第2次世界大戦後、シベリアに抑留された富樫政夫さん(96)=広島市安佐北区=が戦後70年を機に、かつての体験を家族に詳しく証言し始めた。子や孫に語るよう求められたからだ。旧ソ連軍による連行、厳寒の地での収容所生活や強制労働、故郷を思いながら倒れていった仲間たち…。気力を振り絞って4年2カ月の記憶をたぐる。(森岡恭子)

 「こんな悲惨なこと、本当は語りたくない。戦争はない方がええ」。そう語り掛ける相手は、同居している長男雅司さん(58)、帰郷した京都府宇治市在住の孫津田翔子さん(28)だ。終戦を迎えたのは中国東北部の新京(現在の長春)だった。広島県出身者を中心に編成された陸軍歩兵231連隊に所属していた。

 1945年9月ごろ、連れて行かれた先はシベリア南部の旧チタ州カダラ村。収容所に入り、炭鉱で働かされた。休日もなく、ある日は深夜、別の日は早朝というふうに不規則な労働を強いられた。極寒の冬の夜も毛布1枚で過ごすしかなかった。寒さや栄養失調、落盤事故などで死者が相次ぎ、脱走を試みて銃殺された人もいた。

 仲間の遺体も埋葬した。凍土をたき火で温めながら少しずつ穴を掘った。仮置きの倉庫に十数人もの遺体を積み上げたこともある。

 「せめて骨だけでも日本に帰してやりたい」と、作業の合間に死んだ仲間の手首を切って焼いた。隠し持っていたが、全てソ連兵に見つかり没収された。

 2001年から3回にわたり、カダラ村の墓地で厚生労働省の遺骨収集事業があった。行けなかった富樫さんは記憶を呼び覚まし、現地に行く戦友に埋葬場所を示した地図を託した。381体の遺骨が発掘されたが、「もっと多いはずだ」と言う。抑留中に大雨があったといい、「行方が分からなくなった骨もある」。

 1949年10月に帰国。鋳物メーカーに勤め、定年まで仕事に打ち込んだ。231連隊の「生き残り戦友会」は年1回、会合を開いていたが、高齢化のため数年前に途絶えたという。収容所の生き残り同士で抑留体験について語り合える唯一の場だった。

 翔子さんは昨年12月、出産のために里帰りし、証言を聞いた。「おじいちゃんたちのつらい過去があるから今がある。平和をつくる小さな一歩を私なりに踏み出したい」と話している。

(2016年2月16日朝刊掲載)

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