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社説・コラム

『論』 震災復興は今 光を見るだけではなく

■論説副主幹・岩崎誠

 JR仙台駅からは1時間半余り。東日本大震災の大津波から復旧した鉄路を乗り継ぎ、宮城県の女川町を訪れた。市街地の大半が壊滅し、800人余りが命を落とした被災地である。震災の翌年、がれきの片付けが終わりかけの更地に立って以来、4年ぶりだ。目の前の光景はめざましく変わっていた。

 ウミネコが羽ばたく姿をかたどり、温浴施設も併設する石巻線の真新しい女川駅。一歩出ると海を見渡せ、なだらかな斜面のプロムナードが続く。両側に並ぶのは景観にマッチするように木造の平屋にした商業施設である。海鮮丼の店もお目見えしたばかりで、厳しい寒さにかかわらず観光客が目立った。

 町には運転停止中の東北電力女川原発が立地するが、もともと海と生きる水産のまち。「海が見えてこそ女川。だから防潮堤を造らず、かさ上げしてここを造ったんだ」と出会った住民は胸を張った。同じく津波の惨禍に見舞われた気仙沼市などでは防潮堤の高さで行政と住民が反目する場面もあった。それを横目に答えを出したという。

 今や復興のトップランナーと呼ばれ、安倍晋三首相もつい最近、視察に訪れた。駅前を核ににぎわい再生の拠点をコンパクトに整備する事業は国の「まちなか再生計画」という支援制度の第1号でもある。そのグランドデザインも民間、特に若い世代が議論をリードしたそうだ。

 目玉として昨年末オープンした商業施設も震災前の商店街を再現する発想ではない。民間のまちづくり会社が担い、土地所有と店の運営を切り離した「テナント方式」にして町外の人が出店できる仕組みをつくった。公開型の工房を置き、地元の材料を使ったギター製作の拠点にして活性化につなげたいという若い起業家も入居している。

 一帯の工事はなお続くが、整備計画の一環としてあの日、津波で横倒しになったままの海辺の交番を「震災遺構」で残すことが早々と決まっている。

 復興事業をめぐる合意形成の難しさ。復旧が進まない鉄路。震災遺構の保存の是非をめぐる論争…。津波被災地に共通する多くの課題をクリアしたように見える女川は確かに「視察」にはうってつけなのだろう。

 とはいえ復興道半ばであることに変わりない。震災前に約1万人いた女川町の人口は昨年の国勢調査の速報値で37%減と宮城県ワーストの減少率だった。狭い低地が多く、高台の宅地整備に時間を要する事情があるにせよ、厳しい状況といえる。

 高台の工事現場で、建設中の災害公営住宅の青写真を見た。立派なマンションのような建物が連なる。ただ住環境が整っても、人がどこまで戻るだろう。もとより少子高齢化が進む地域である。現実問題として町も人口減を前提にしたまちづくりを考えているようだ。「10年後、20年たてば女川はどうなっているか不安もある」と、今も仮設住宅で暮らす住民は語る。

 震災復興には5年間で25兆円の国費が投じられている。そのお手本といえる街ですら、明るい未来図を描き切れないのが巨大災害の現実だろう。住民の帰還さえままならない原発事故の被災地が、それ以前の状況であることは言うまでもない。

 思えば大震災が起きてから、東北3県の被災地を20回近くは訪れてきた。時に仮設商店街や仮設住宅で復興へ踏ん張る人たちの声を聞き、本紙でも伝えてきた。人口が一気に流出した被災地の現状は日本の未来を先取りする―。そんな視点から、復興への歩みが身近な地域再生のヒントにもなる、と考えて。

 ただ、少し自省しなくてはなるまい。国が用意した「創造的復興」という一律の物差しを行く先々の被災地に当てはめ、成否と早い遅いを上から論じてきたきらいはなかったか。前向きな復興のストーリーばかり目を向けてこなかったか。それはメディア全般にいえることだ。

 3・11を前に、そんなことを考え始めたのは、今回の旅でもう一つ見た被災地の寂しい光景からである。仙台市の海岸部にあって約180人が津波にのまれた荒浜地区のことだ。

 今では災害危険区域に指定されて、人は住めない。だが荒涼たる空き地に映画のように黄色いハンカチをはためかせ、市の復興策に異を唱えてきた人たちがいる。この場所での暮らしの再建を求める「荒浜再生を願う会」の住民らである。

 荒浜は伊達政宗の時代以来の開墾の歴史を持つ、恵み豊かな土地だった。住民は田んぼを守りつつ、目の前の海で漁業に携わってきた。松林や白い砂浜も自慢で、海水浴場としても親しまれた。あの日失われた集落の記憶を伝え、再生につなげたいとボランティアの協力で一帯の清掃を重ねているという。

 実のところ荒浜には何度も来ている。彼らが思いを訴える看板も知っている。だが、ある意味では見て見ぬふりをしてきたのかもしれない。防災という視点からは無理があるからだ。

 昨年10月、会の活動に深刻な影響を及ぼしかねない事件が起きたことを知って心が動いた。拠点として許可を得て建てたロッジが、放火とみられる火事で全焼したのだ。それでもビニールハウスを使って活動を継続していると聞く。その熱意と古里への愛着を簡単に切り捨てていいのかと、思いたくもなる。行政の復興スキームからは、明らかに外れていたとしても。

 仙台市は、荒浜地区をどう活用していくかの基本的な考え方をまとめたばかりである。津波の際に避難場所となった小学校の校舎や流された住宅の基礎を残し、地元の歴史を伝えるモニュメントなどを設置する「継承ゾーン」が柱だという。議論が遅れたとはいえ、前向きな話し合いが進むことを願う。

 そもそも過去の自然災害を考えると、5年という復興スパンなど短すぎよう。もっと長い目で見守っていく必要があるのではないか。被災地の光も影も、そして限界も迷いも。それを知るために、今後も足を運び続けたいと心に誓っている。

(2016年2月25日朝刊掲載)

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