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社説・コラム

社説 震災5年 復興への道 一人一人の思いに耳を

 人々はどのような日常を一瞬にして失ったのだろうか。

 東北の直木賞作家熊谷達也さんが、3年がかりで連作短編集「希望の海」を書いた。東日本大震災。あの日を描かずに、架空の港町―仙河海(せんがうみ)市のごく普通の若者たちの生き死にを描く。宮城県気仙沼市がモデルだ。

 その一編に<お兄ちゃんさ。私が死んでいるの、知っているんでしょ? >という会話が出てくる。仮設住宅に暮らす兄妹の妹は実は、この世のものでなく兄を気遣って傍らにいた。

 悲しい。しかし互いに本音を明かして別れ、兄は再び前を向いて歩く―。多くの犠牲者遺族の心情を著者はくみ取ったのだろう。そして、言葉にもまだ力はある、と確信したようだ。

 地元紙の河北新報は昨年末、全15回の連載「もう一度会いたい」を走らせた。3人の子を津波に奪われた同県石巻市の一組の夫妻に100時間以上インタビューした。「いいことも悪いこともありのまま書いて」と協力してくれたという。深い喪失感と悔恨の念をあえて言葉にする。そこから歩みだすしかないと、夫妻は意を決したのだろう。

 東日本大震災の犠牲者と行方不明者は1万8456人に上り、過去の災害とは比べものにならない犠牲をもたらした。加えて震災関連死は増え続け、認定分で3400人を超えている。仮設住宅での孤独死も、200人に近づいているのだ。

 やはり地元紙の福島民報には「原発事故関連死」とはっきり位置付けたキャンペーン報道がある。「原発事故では死者はいない」と公言した電力関係者がいたが、そうではあるまい。

 人はどんな最期であっても、その後は安らかな眠りに就きたい、就かせたいと誰しも思う。ところが地震で墓石が倒れ、空間放射線量も高い土地では、納骨の見通しが立たない。避難先で亡くなった人は生きて故郷に帰れず、死んでも帰れない。

 今、三陸沿岸を旅すれば、かさ上げ工事のために大量の土がうずたかく積まれ、南三陸町防災対策庁舎の骨組みも埋もれたように見える。大量のがれきは片付けられ、新たに防潮堤の高い壁が取り巻く地域もある。

 国は巨額の公共工事費を投じるが、それによって一人一人にとっての三陸がすぐ取り戻せるわけではあるまい。インフラの復興と心の復興の隔たりは、広がるばかりだ。しかも人口減少社会に入って、そのインフラの維持費はいずれ地方財政を圧迫しかねない。住む人たちはそれを歓迎しているのだろうか。

 逆に福島の避難地域は打ち捨てられたままだ。除染廃棄物の中間貯蔵施設の行方は定まらず、第1原発では放射性物質を含む汚染水漏れなどのトラブルが尽きない。炉心から溶け落ちた燃料(燃料デブリ)に至っては、状況すらつかめない。

 オリンピックだ、インバウンド(訪日客)需要だと気勢を上げるのもいい。しかし、日本人が子々孫々に責任を持つためになすべきことは何なのか、今こそ立ち止まって考えよう。

 気仙沼市ではきのう、地元のサーフィンクラブが海岸で慰霊祭と清掃活動を行ったが、海を避けていた地元の人も参加した、と報じられた。やっと5年である。一人一人の思いがくみ取られてこそ、インフラの復興も生きてくるのではないか。

(2016年3月7日朝刊掲載)

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