×

社説・コラム

天風録 「福島の居酒屋で」

 菜の花のおひたしに、小カブのサラダ。福島市を訪れた夜、立ち寄った小さな居酒屋のカウンター越しの手作りの品々に心ひかれた。「ようやく春が来ました」。72歳のおかみが出してくれた▲おのずと話は5年前に移る。海岸からも、あの原発からも遠い。だが経験のない揺れは、店をめちゃくちゃにした。「もうだめだ」と立ちすくみながら調理場を見ると、長年つぎ足し使ってきた焼き鳥のタレのつぼだけが、割れていなかったそうだ▲負けないで。タレが語りかけた気がして再起を決めたという。未曽有の震災の混乱の中、同じように身の回りの小さなことに希望を見いだした人も多いに違いない。だが苦悩はなお続く▲おかみの店でも地元の魚を出していない。理由は一つだ。拡散した放射線の罪深さを思う。かつて事故現場近くで見た、人の気配なき光景が頭をよぎった。「生きているうちは戻れん」という住民の重い言葉とともに▲きのう午後2時46分。原発事故も津波も問わず、被災者のほとんどがそっと手を合わせたことだろう。その思いに寄り添い、今なお災害は進行中と胸に刻みたい。もっと話を聞きたいと、もう一品注文した夜のことを忘れまい。

(2016年3月12日朝刊掲載)

年別アーカイブ