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社説・コラム

『言』 3・11からの再起 「幸せの牛乳」届けたい

◆復興牧場フェリスラテ社長・田中一正さん

 福島市に昨秋、オープンしたのが復興牧場である。東京電力福島第1原発の事故で福島県飯舘村などの牧場を追われた酪農家たちが会社「フェリスラテ」を設立し、共同運営している。社名は、幸せの牛乳を意味する造語。「この地で健康な牛を育て、おいしい牛乳と幸せを届けたい」。震災から5年を経て意気込む社長の田中一正さん(45)に再起にかける思いを聞いた。(論説委員・田原直樹、写真も)

  ―牛にやさしく、人にやさしく、という理念が名刺に記されていますね。
 おいしく安全な牛乳は、健康な牛からと考えています。日々の牛の健康管理を徹底しています。例えば餌は栄養価が高い輸入飼料を吟味し、バランスが取れたものを与えています。

  ―規模の大きい牧場ですね。
 東北地方で5指に入ります。県酪農業協同組合が整備した牧場施設をフェリスラテが運営しています。牛は現在500頭。うち300頭から乳を搾っています。残りは今後、お産してからになります。1日の生乳生産量は今のところ、8トン強です。主に酪農組合を通じて地元の乳業メーカーに出荷しています。一部は県外にある大手の工場にも出しています。

  ―自社ブランドの牛乳はまだないのですか。
 まずは経営を安定させ、足元を固めること。将来の青写真を描くのはそれからですね。もちろん、ゆくゆくはブランド化も検討しなければならないかもしれません。というのも環太平洋連携協定(TPP)などで、酪農をめぐる環境は風当たりが強くなりそうですから。

 例えば、酪農を軸にした複合経営とか、6次化を図るとか、生き残り策を模索しなくては。乳業メーカーはどこも切磋(せっさ)琢磨(たくま)しており、大手は長年の研究で特許や技術を持っています。うちは、そういった付加価値うんぬんや大量生産よりも、まずはおいしい牛乳をつくりたい。

  ―原発事故のイメージが支障になりはしませんか。
 ハンディは感じますね。放射性物質がばらまかれたのは事実ですから。それでも地元スーパーなどに「安全安心 県外産」なんて書いてあるのを目にするとがっかりさせられます。

 地元では原乳について、国や他県よりも厳しい自主基準値を設けて放射性物質を検査しているんです。もちろん検出されたことはありません。「福島印は日本一安全」と胸を張ってアピールしたいですね。

  ―イメージを何とか拭い去りたいですね。
 食の安全を言うなら、日本のみならず世界中で、主要な農産物について放射性物質を計測する統一システムを導入すべきです。そこで真っ向勝負したい。

  ―田中さんは原爆を知る家族がいると聞きました。
 現在78歳の父親は、京都生まれですが戦時中、広島に疎開していて原爆に遭いました。8月6日の朝は、母と弟と家にいたそうです。便所にいて、けがはなかったんですが爆風で戸がゆがみ、なかなか外に出られなかったそうです。

 惨状の生々しい記憶は今も語りません。私は子どもの頃に漫画「はだしのゲン」を読んで、父の体験を想像しましたが、放射能や「被爆2世」について、深く考えたことはありませんでした。でも5年前、自分が福島で「被曝(ひばく)1世」になってしまいました。

  ―飼っていた牛は原発事故でどうなったんですか。
 全頭処分と言われたけれど、約半数は何とか知り合いに引き取ってもらえました。でも残りは食肉市場送りにせざるを得ず、最期まで見届けました。ショックでしたが、あの状況でも半数を救えたんだと、今は前向きに思うようにしています。

  ―どうして福島で酪農を続けるのですか。
 志を持って入植した土地ですから。牛を飼うには飯舘村は環境も良かった。原発事故があって何キロかの差で補償を受けられず、本当に苦しい思いをしている仲間がいます。この福島で苦楽を共にしながら牛を飼っていきたいと考えています。

 それに酪農を志す人材、とくに若手を育成したい。それがきっと福島の酪農や畜産、農業の復興につながると思うんです。

たなか・かずまさ
 東京都練馬区生まれ。酪農学園短大を卒業後、栃木県の大規模牧場に勤務。30歳で独立し、福島県飯舘村長泥に牧場を開いた。乳牛45頭を飼っていたが、原発事故で避難を余儀なくされる。一時、山形県の牧場で働いたが福島に戻った。昨年、被災した酪農業仲間5人でフェリスラテを設立し、社長に就任。福島市内で両親と暮らす。

(2016年3月12日朝刊掲載)

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