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連載・特集

忘却にあらがう 東日本大震災から5年 <3> 建築史・建築批評家 五十嵐太郎さん

 花が手向けられた慰霊碑の向こうで、重機の音が響く。東日本大震災の津波が襲い、800人以上が亡くなった宮城県女川町。2月下旬、土地のかさ上げや中心街の再建が進む町をカメラで追いながら、港の近くで横倒しになったまま残る廃虚を見やった。

 鉄筋2階建ての旧女川交番。あの日、なぎ倒されたビルや民家が相次いで撤去される中、町で唯一の「震災遺構」として津波の猛威を伝える。「数世代先かもしれないが、地震や津波はまた起きる。人は少なからず震災を忘れるだろうという前提に立って、できるだけ残した方がいい」

◆定点観測を継続

 被災地の「定点観測」を震災直後から続ける。北は青森県、南は千葉県に及ぶ。

 5年前の震災当日は、トークイベントで横浜市にいた。教授を務める東北大のある仙台市に帰り着いたのは3月下旬。「東北に暮らし、建築に関わる者として被災地の風景を頭に刻んでおきたかった」。ところが、行く先々で出合うのは、震災の爪痕を残す被災建物が取り壊されていく光景だった。

 「廃虚を見るのがつらい人たちもいる。ならば囲いで覆い、見たい人に入ってもらう方法だってある。解体か保存かの二者択一ではなく、しばらく残しておく中で、新たな考え方や価値が見いだせるのでは」。近著「忘却しない建築」(春秋社)などでも繰り返し訴えるのは、負の記憶を含めて重層的な歴史が積み重なったまちづくりだ。

 被爆地広島にもたびたび足を運んできた。関心は、復興した都市に廃虚の原爆ドームが残されたいきさつに向く。

 平和記念公園(広島市中区)は、原爆ドームへと続く軸線上に、原爆慰霊碑と原爆資料館が立つ。建築家丹下健三が設計し、完成したのは1950年代。ドームの保存運動が高まり、66年に永久保存が決まる前だ。「丹下はドームが残ることを見越して自身の建築を関連づけたのだろう。その思いが結実するように、被爆地のメッセージを国内外に発信するシンボルになり、世界遺産として多くの人を引きつけている」

◆20ヵ国で巡回展

 震災後、新たな活動にもチャレンジした。福島県南相馬市の仮設住宅に併設する集会所の基本設計はその一つ。建物を造るのは初めてだったが、福島の建築家から依頼され、東北大の研究室で取り組んだ。

 「仮設住宅での暮らしが単なる通過点にならないよう、心に残る風景を届けたかった」。2011年夏に木造の集会所が完成。そばに、ヒノキ材をらせん状に組み上げた高さ約8メートルの塔も設けた。一帯は住民の散歩コースや憩いの場になった。

 震災後の建築家の実践と提案を模型やパネルで紹介する展覧会も企画し、15年春までに約20カ国を巡回。13年に愛知県であった国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」では芸術監督を務めた。テーマは「揺れる大地―われわれはどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」。国内外のアーティストが美術展や舞台を繰り広げ、約62万人が詰め掛けた。

 「震災以降、使い手に寄り添う建築の取り組みが加速したが、実現していない構想や提言はまだ多い」と振り返る。巨大堤防で津波に対するだけではなく、土木・建築・都市計画の3分野の専門家が連携し、災害に強い地域づくりをどう進めるか。復興が手つかずの福島第1原発の周辺エリアとの関わりも課題という。

 「被災地では今後、メモリアル施設の建設が具体化してくる。どれだけ記憶や感情のトリガー(引き金)となる内容を盛り込めるか。建築界も存在感を示し、震災への備えをもっと提案する必要がある」(林淳一郎)

いがらし・たろう
 1967年、両親の留学先のパリで生まれた。東京大大学院修了。2005年東北大大学院助教授、09年から同教授。著書に「戦争と建築」「被災地を歩きながら考えたこと」など。仙台市在住。

(2016年3月12日朝刊掲載)

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