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連載・特集

[Peaceあすへのバトン] バーテンダー・冨恵洋次郎さん 証言会10年 生きる糧に

 毎月6日に被爆証言会を開いています。会場は、自分の経営するバー「スワロウテイル」(広島市中区薬研堀)。ことし2月、2006年の証言会スタートから丸10年がたちました。

 思い出に残る一人に、如水館高(三原市)硬式野球部の迫田穆成(よしあき)監督がいます。5年連続で頼み、昨年8月6日、ようやく実現できました。

 被爆後の貧しい暮らし、丸めた毛糸をボール代わりに焼け跡で練習した野球…。話は被爆の惨禍だけで終わらず、聞いた人の胸にすっきりした気分が残りました。「あんな大変な時代を生き抜いた人。自分も明日から頑張らなきゃ」

 中区本通にあった店が火事になった12年も、証言会だけは続けました。原爆では市街地が焼け野原になったのに、自分の店が焼けただけで中断しては、何のために証言を聞いてきたのか―。そう思ったからです。

 被爆者の高齢化をひしと感じることがあります。50回を迎えた10年以降は、以前話してもらった人に再登場をお願いすることがあります。しかし、自宅に電話すると奥さんが「主人は亡くなりました」。子どもが大人になった頃は、もう肉声が聞けないでしょう。

 バーにはいろんな人が、お酒やおしゃべりを楽しみに訪れます。私は「カウンター」という絶妙な距離を置いて、お客さんに接します。目標は、自分が水のごとく形を変え、相手の気持ちを満たすことです。

 証言会を始めたのは、原爆について尋ねるお客さんの質問に答えられない自分が嫌だったからです。学び直そうと原爆資料館(中区)や図書館を訪れましたが、自分には「歴史の勉強」でした。犠牲者や熱線の温度といった数字には、人間味が感じられません。

 被爆者の体験を聞こうと証言会を探しましたが、見つからず、「それなら自分で開こう」。当初は呼び掛けに応じた常連客が来てくれました。派手なスーツ姿のホスト、風俗業界で働く若い女性も。証言に真剣に耳を傾けていました。

 今はフェイスブックなど会員制交流サイト(SNS)を通じて県外からも来てくれます。興味なさそうな人にも立ち寄ってもらえることを目指しています。

 「ありがとう」の反対は何だと思いますか。「当たり前」です。証言を聞く中で、核兵器廃絶の願いとともに、家族や家庭があり、温かい布団で寝られる幸せが一層感じられるようになりました。(文・山本祐司、写真・河合佑樹)

10代へのメッセージ

今ある身近な幸せに気付こう

とみえ・ようじろう
 広島市西区出身。県立広島商業高時代は野球部で4番打者。関東の大学を中退後、2000年4月に広島市内でバーを開く。06年2月から被爆証言会を開始。呉市安浦町でもカフェを経営。中区在住。

(2016年3月14日朝刊掲載)

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