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連載・特集

忘却にあらがう 東日本大震災から5年 <6> ジャーナリスト 古居みずえさん

古里喪失 映画で追う 飯舘の苦悩 胸に刻み

 この5年、自宅のある東京と福島を行き来する生活が続いている。

 福島第1原発事故のために放射線量が高く、全村避難を強いられた福島県飯舘村。そこを逃れ、仮設住宅で暮らす女性たちを追ったドキュメンタリー映画「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」を完成させたばかり。5月から公開が始まる。

 四半世紀にわたり、パレスチナなど紛争地に生きる女性や子どもの姿を撮り続けてきた。「古里を奪われた飯舘の人たちの姿は、パレスチナとも重なって見えた」と語る。

◆野花が咲く村で

 東日本大震災には東京で遭った。すぐに被災地へ向かった仲間もいたが、「あまりの出来事になすすべもなくて、何をどう捉えたらいいのか悩み、すぐには動けなかった」。4日後に東北へ。しばらくは自分が何をすべきか考えながら、岩手、宮城の沿岸部などで津波の爪痕を取材して回った。

 4月下旬、飯舘村が「計画的避難区域」に指定されたという報道に接し、村を訪ねた。桜や野花が咲き誇り、ウグイスも鳴く美しい場所。「こんな素晴らしい土地が目に見えないもので汚染されていることが惜しくて」。同時に、ここで生きてきた人々はどれほど悲しく、悔しいかと胸が痛んだ。

 飯舘村で最初に出会ったのが、酪農に従事していた「母ちゃんたち」。わが子のように大切に育ててきた牛を殺処分するため、泣きながら手放すところだった。「大変な場面に立ち会った。土地を追われる人たちが、今どんな体験をし、何を考えてきたのか、きちんと伝えないと」。写真と映像で記録し始めた。

 村民の避難が進むとともに、取材も福島県内の仮設住宅に移った。今回の映画の主人公となった菅野(かんの)栄子さん(79)とは伊達市の仮設住宅で知り合った。

 原発事故が起こるまでは酪農や農業をし、まさに土とともに暮らしていた菅野さん。飯舘の豊かな自然の恵みに感謝しながら、孫に囲まれて幸せな老後を送るはずが、一変した。古里を思いながら、同様に独りで隣に住む親友の菅野芳子さん(78)と励まし合って暮らしている。

 「笑ってねえどやってらんねえ」と、漫才のような掛け合いをしながら、地域に伝わる手造りみそや凍(し)み餅などの食文化を広める活動を続けている。今は人が住めなくなった村だが、将来へ向け、その存在を確かに伝えていくためにだ。

◆人ごとではない

 映画では、長引く避難生活で揺れ動く栄子さんたちの心や、除染作業の様子もつぶさに追った。帰村に向けて機械的に進められる除染は、大地とともに思い出までもそぎ取っていく。それでも山林などは手付かずの場所も多く、依然として線量は高いまま。無人の住宅は朽ち、庭や畑は雑草だらけだ。

 「『までいに(丁寧に、心を込めて)暮らそう』と山や土の恵みに感謝し、自然と調和して生きていた人たちの村が、対極の経済優先主義の犠牲になった」。一時帰郷した栄子さんが草木に「ごめんね、ごめんね」と涙ながらに謝るシーンが印象的だ。

 東京に戻れば、オリンピック開催に向けて沸き、原発の再稼働にはやる日本の実情が目に入る。「放射線は目に見えないから、考えようとしなければ考えずに済ませられるかもしれない。でも原発大国の日本では、誰しも人ごとではない」

 映画の完成後も撮影は続けている。「母ちゃんたちの希望が失われていく様子を撮るのは本当につらい」。でも、記録し続ける。なかったことにされないために。(森田裕美)=おわり

ふるい・みずえ
 1948年出雲市生まれ。88年からパレスチナ、ウガンダ、アフガニスタンなどの紛争被災地で、特に女性や子どもたちの日常を取材。監督した映画「ガーダ、パレスチナの詩」は2006年、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受けた。東京都在住。

(2016年3月17日朝刊掲載)

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