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連載・特集

『生きて』 マツノ書店店主 松村久さん(1933年~) <3> 徳山空襲

「ああ、これが戦争か」

  1945年春、徳山工業学校(現徳山商工高)へ入学した。戦況は悪化の一途。5月10日には米軍の爆撃機が徳山市(現周南市)の上空に飛来し、第三海軍燃料廠(しょう)など沿岸部の軍事関連施設を爆撃した
 おやじは5月ごろ、陸軍に召集されて宮崎県に配属された。42歳で兵隊としては高齢の部類じゃった。戦地へは行かんかったけども。それに合わせて古本屋は休業となり、母や妹は実家のある山口県鹿野村(現周南市鹿野)へ疎開した。

 私は終戦まで約3カ月間、徳山市の職員だったおやじの知人に預けられた。そのお宅は今の周南市二番町にあり、そこから徳山工業学校へ通いよったんです。

  7月26日深夜から27日未明にかけては、米爆撃機延べ100機余りによって徳山の市街地に焼夷(しょうい)弾や小型爆弾が落とされ、焼き尽くされた
 7月26日の夜のことは忘れもしない。空襲が始まったのは二番町の家にいたとき。とにかく街の中心から離れようと思った。東の高台にある徳山工業学校の方へ、通学路でよく見知った道を一人でどんどん逃げた。夜道を、火の海になった市街地の明かりと空中で散らばる焼夷弾の光を頼りに。その道は今も自宅から店へ通うのに毎日車で通っちょる。だから思い出すんよね。

 学校の方まで逃げたら朝になった。焼け野原になった街を見下ろして、「ああ、これが戦争か」と実感した。街に戻ったら人がいっぱい死んどった。二番町の家と家族の無事を確認し、昼前に自転車で鹿野へ向かった。早く帰って母と妹を安心させないといけないと思って。おやじの古本屋は全部焼けてしまった。

  2度の徳山空襲による死者は約千人、家屋の全焼は4590戸とされている
 当時、徳山中(現徳山高)の北側に小川が流れていた。徳山駅近くに住んでいた人の多くは、そっちへ逃げて亡くなった。町は燃えて熱いから、水辺へ逃げるでしょう。それを米軍も知っちょるんよね。川べりにどんどん焼夷弾を落としていった。もし勉強が大好きで徳山中に入っていたら、そっちへ逃げていたかもしれない。

(2016年3月19日朝刊掲載)

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