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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 岡田市恵さん―傷ついた避難者に衝撃

自立決意。結婚、出産経て定年まで勤める

岡田市恵(おかだ・いちえ)さん(80)=広島市西区

 生後間もなく母を結核(けっかく)で失い、原爆投下の翌年に父を亡くした岡田(旧姓生島(いくしま))市恵さん(80)。親代わりだった祖母も中学生の頃(ころ)に他界し、「自立しなければ」と、当時では珍(めずら)しく、結婚(けっこん)、出産を経て定年まで正社員として勤め上げました。今も笑顔を心掛(こころが)けて生きています。

 被爆当時は、宇品国民学校(現宇品小、広島市南区)の4年生、9歳でした。1945年4月から広島県北部の作木村(現三次市作木町)の寺に集団疎開(そかい)。村の人たちに親切にしてもらい、桑(くわ)の実がおいしくて口や手を紫色(むらさきいろ)にしていた思い出があります。それでもやっぱり家に帰りたくて、祖母スミさんが7月に脳出血で倒(たお)れたのを機に、宇品神田(現南区、爆心地から約4・1キロ)の自宅に戻(もど)りました。

 原爆が投下された時は、ちょうど家の中にいました。「ピカーッと光って、ドンという音と爆風(ばくふう)があったけど、窓ガラスに紙を交差で貼(は)っていたから割れなかった」

 ただ、家の前にあった路面電車の通りは、似島(現南区)に避難(ひなん)しようと南へ歩く人がいました。「皮膚(ひふ)が垂れた人が来たり、体の後ろが焼けた人が来たり。おばあちゃんに『そんなの見たらいけん』と言われて、見に行かないようにした」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 その日の朝、病弱だった父の進さんに代わって市役所付近の建物疎開作業に出掛(でか)けた伯父(おじ)が戻ってきません。父が捜(さが)しに行きましたが、鷹野(たかの)橋あたりから火勢が強くて入れませんでした。伯父は大したやけどもなく、9日に戻ってきましたが、その日の晩に死亡。父も翌年11月、腸結核で他界しました。「父は耳や鼻から出血していた。もしかしたら原爆症だったのではないか」

 戦後は、被爆者への偏見(へんけん)がありました。「子どもができない」も、その一つ。48年、原爆投下時に家にいた人を市役所に届け出る際、祖母は岡田さんの名前を書きませんでした。「結婚を心配してくれたんでしょう」

 そんな祖母を50年に亡くした岡田さん。「職業婦人」への憧(あこが)れと、「自立しないといけない」という思いで、高校を卒業した54年春、百貨店の福屋(現中区)に就職しました。当時、配属された食品売り場では、砂糖の統制が撤廃(てっぱい)されて間もないころ。「甘納豆(あまなっとう)や、やっこあられがものすごくよく売れた」と振り返ります。

 結婚相手は知人の紹介(しょうかい)。「仕事を続けるのを許してくれる」条件を受け入れてもらいました。育児休業制度のなかった時代。長男の和也さんは義母文子(ふみこ)さんが見てくれました。

 60歳で福屋を定年退職。夫の卓也さんを7年前にみとりました。同じころ、腎臓(じんぞう)に腫瘍が見つかり、摘出しました。「原爆の影響(えいきょう)があったのかなあ」とも思っています。

 今はフォークダンスを楽しむ日々。「好きなことができるから、平和はいい。平和が続いていくために、戦争を知っている私たちが語らないといけない」と考えています。(二井理江)

私たち10代の感想

原爆が人生を左右する

 岡田さんの祖母は、結婚(けっこん)に影響(えいきょう)するからと、岡田さんが被爆した届けを市役所に出していませんでした。そのためか、被爆者健康手帳を取るのに1年近くかかりました。原爆が、人々の人生を左右してきたことを知りました。反戦反核の思いとともに、碑(ひ)巡(めぐ)り案内など学校の平和活動で伝えていきます。(高1山田千秋)

安心し仕事できる世に

 両親を早く失った岡田さん。自立した生活を求め、育休もない時代に定年まで働いたと聞き、衝撃(しょうげき)を受けました。職場にも恵(めぐ)まれ、長年仕事を続けられました。しかし、別の会社に就職したいとこは入社3年で早期退社を促(うなが)されたそうです。誰(だれ)もが安心して仕事を続けられる世の中にしたいです。(高2鼻岡舞子)

庶民に我慢強いる戦争

 岡田さんは、近所にあった軍の倉庫に、お菓子(かし)があったのを知り、自分たちと軍人とのギャップを感じました。庶民(しょみん)は戦争のせいでひもじい思いをしていたのです。戦争は軍人だけがやるのではありません。庶民は我慢(がまん)を強いられるにもかかわらず、得る物は何もないのです。それを伝えていく必要があります。(高2林航平)

(2016年3月21日朝刊掲載)

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