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連載・特集

『生きて』 マツノ書店店主 松村久さん(1933年~) <4> 終戦

復興の息吹感じ手伝い

  徳山工業学校(現徳山商工高)1年の夏、終戦を迎えた。復員した父は、空襲の焼け跡のバラック小屋で新刊と古本を扱う本屋を始めた
 戦争が終わると、おやじが宮崎から帰ってきた。最初は私と2人で徳山(現周南市)へ戻ったんです。まず家と仕事場を作ることで大変だったからね。今の徳山動物園のすぐ南側に、ちょっと直したら住める家を見つけた。空襲の際の弾の跡とかは残っていたけど、住まうには不自由なかった。それで母と妹3人がこっちへ来て、家族6人の生活を始めたんです。

 店舗は焼けてしまったので、徳山駅近くにバラック小屋を建てて、今度は新刊も扱い始めた。おやじはハイカラ好みでね、戦前の屋号をカタカナに変えて「マツノ書店」にした。私は学校から帰ると父の手伝いをしていた。店番だけでなく、雑誌の配達や、戸板と商品を持って商店街に出掛け、店の軒先を借りて街頭販売みたいなこともしよった。

 戦後復興のために、みんな一生懸命働いとった。空襲で焼けてしまった徳山に、どんどん道路や街ができていくのを見てうれしかった。

  1948年の学制改革に伴って、徳山高へ編入した
 徳山工業学校3年のとき、おやじの店の手伝いを終え、家まで歩いて帰りよったときに友人に会って、徳山中が徳山高になるのに合わせて編入できるという話を聞いた。2、3日後にテストがあるという。家に帰って両親に言って、試しにやってみようということになった。徳山高は家からも近いしね。

 もともと物を作ったりするのは好きじゃない。科学とか物理とか興味がなかった。だから工業高校よりは普通科がいいと思って。徳山高はここらじゃトップランクの学校だけど、編入の試験は格別難しいってわけではなかった。戦後の混乱の時代だから、そんなことが運良くあったんだな。普通に入学試験を受けたら落ちるいね。

 高校時代は数学が得意で好きだった。将来は数学教師になるのもいいなと思っていた。本屋を継ぐことはあまり考えていなかった。編入後はそれなりに勉強したから、広島大へも受かった。それが貸本屋を始めるきっかけになった。

(2016年3月22日朝刊掲載)

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