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連載・特集

『生きて』 マツノ書店店主 松村久さん(1933年~) <5> 広島大入学

貸本屋相手 ブローカー

  1951年、徳山高を卒業し、広島大政経学部に入学した
 広島大進学は母の希望だった。ちょうどそのころ、徳山市(現周南市)の戦災復興の都市計画事業で徳山駅前の本屋は立ち退きを余儀なくされた。おやじがお人よしで換地をもらい損ねたこともあり、3年の間に5度ほど移転。どんどん経営が苦しくなって倒産寸前となった。

 大学の周りには漫画を扱う子ども向けの貸本屋がたくさんあって、貸本屋用の市や卸屋が盛況だった。そこでうちでも卸をやってみようと思った。徳山の店の経営に一役買おうという思いもあってね。そこで大学3年の時、店に貸本部を設け、さらに希望者を募って徳山と周辺に約30件の貸本屋をつくった。「小資本で誰にでもできる貸本屋」との触れ込みのパンフレットを新聞の折り込み広告で入れたりして呼び掛けた。

  周南地区で貸本業の下地ができたところで、広島で仕入れた本を学生定期を使って徳山に運び、毎週のように貸本用の本の市を開いた
 広島で安く仕入れた本を売りさばいた。いわゆるブローカーです。営業のアドバイスなんかもしていた。大学4年目のときに、ようやく店の場所が駅の北西へ落ち着いた。そこで今までにない若者向けの貸本屋を自分でやってみようと思い立ち、「マツノ読書会」ができたんです。

 大学は1、2年生の時はちゃんと通っていたが、3年生になると店のほうが忙しくなってほとんど行かなかった。大学へ行くのは学生定期を買うための証明書をもらうときくらい。広島で本を仕入れるにしても、学生定期を使うと格段に安くなるから商売上、具合が良かったんよね。

  大学は、2年留年した末に卒業した
 大学3年からの専門課程に在籍できるのは4年間まで。つまり2留が限度で、それ以上は大学に残れない規則になっとった。母は店を継ぐより、いずれはどこかの企業へ勤めてほしかったようで「せめて大学は卒業しなさい」ときた。だから6年目、もう後がなくなって必死にテストの勉強をした。授業へは変わらず出んかったけどもね。本当にしんどかったよ。卒業後も、試験で切羽詰まっていたころの夢を見てうなされることがあった。

(2016年3月23日朝刊掲載)

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