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社説・コラム

『論』 平和公園の地下 被爆遺構 生かす道ないか

■論説委員・東海右佐衛門直柄

 焦げたしゃもじ、写真立て、熱線でぐにゃり曲がった瓶…。原爆資料館本館の周りで進む発掘で、被爆当時の遺構とともに暮らしの品々が続々と出土している。耐震工事に伴う調査である。

 「ここが銭湯で、すぐ隣が牛乳屋さんでした」。学芸員の説明を聞きながら、発掘現場に下りた。この辺りで子どもたちは遊び、女性たちは世間話をしていたのかもしれない。想像しながら歩くと、胸が締め付けられる。

 一帯の旧材木町を含む中島地区は原爆投下前、商店や民家、寺などが立ち並ぶ繁華街。約4400人が暮らしていた。そして71年前のあの日、町は一瞬で消えた。

 今回の調査は重い意味を持つ。平和記念公園の下に原爆で壊滅した中島地区の町並み跡が、今も残されていることがほぼ確実となったからだ。黒く焦げたがれきや遺品などが地中に積み重なり、埋もれたままになった「地層」。人々の営みを示す遺構を前に、あらためて被爆のむごさを思う。ガラスケースの展示品とは違うメッセージといえる。

 平和公園内では1999年度、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が建設される際、地中に被爆の痕跡があることが分かった。しかし発掘は短期間に終わった。その調査に当たった石丸紀興・元広島大教授は「当時は祈念館の建設を急ぐことが優先だった。国も広島市も、地下の被爆遺構を『文化財』としてとらえる意識が弱かった」と証言する。

 しかし、その重要性は今こそ増しているのではないか。平和公園は慰霊と平和希求の象徴として高く評価され、9年前には国名勝になった。一方で原爆投下前に町があったことを知らず、爆心地近くは昔から公園だったと誤解する観光客は少なくない。地中に眠る被爆遺構にもっと目を向けたい。

 もちろん被爆直後の惨状が完全に残っているとは考えにくい。原爆が投下された後、人々が肉親の遺体や遺品を捜そうと一帯を掘り返したとみられるからだ。しかし被爆4年後の広島平和記念都市建設法施行に伴い、公園整備が本格化した頃に一帯は数十センチ盛り土されたため、多くの被爆の痕跡が損傷を免れた形になった。

 残念ながら、今回の発掘現場を保存することは困難という。資料館の基礎部分に免震ゴムが取り付けられるためだ。出土した資料の一部は保存され、いずれ展示されるものの、被爆で黒く焦げた地層は全て失われてしまう。

 国名勝として、平和発信の拠点として、平和公園の役割を果たしつつ、地中に埋もれた被爆遺構を生かす方法はないだろうか。

 例えば公園の一角を選び、その地中に残されている被爆の痕跡を今度は保存・活用を前提に調査することを考えてもいい。熱線で焦げた地層を樹脂や強化ガラスなどで覆い、その場所で公開することも検討に値するのではないか。美しい公園の下には、今なお黒焦げになった町の跡が横たわる。その現場を見せることができれば、より多くの人の胸を揺さぶるに違いない。

 現に広島市も2006年にまとめた平和記念施設保存・整備方針で、中島地区について「地下に残る町並みの遺構の活用」を検討すると明記している。しかし計画はその後、必ずしも進んでいないようだ。もし実現すれば広島の発信力の強化につながろう。

 来月には、広島市で外相会合がある。核保有国を含む外相たちが平和公園を訪れる方向で検討されている。そのために近く発掘作業は中断するというが、いっそのこと現場の遺構を見てもらうことはできないか。核兵器が1度でも使われたらどうなるのか。世界の指導者にこそ触れてほしい。

(2016年3月24日朝刊掲載)

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