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広島の団体が教育支援 内戦の影響残るカンボジア・ラオス アジア大会から交流続く

 長い内戦を経たカンボジアとラオスでは、今も地雷や不発弾が国土に埋まる。当時は虐殺も行われ、経済成長や教育の普及が阻まれた。広島県内の企業でつくる広島アセアン協会の視察団に同行し両国を訪れた。メンバーは、その現状を戦後の日本と重ね合わせ、教育や平和の大切さを再確認していた。(堀晋也)

 頭蓋骨、床にこびりついた血の跡、さびた鎖…。カンボジアの首都プノンペンでポル・ポト政権時に刑務所だったトゥールスレン博物館の展示が胸に迫る。元は高校だった施設。教室内がれんがで間仕切りされ、狭い場所では1室に11人が収容できるよう作り替えられていた。ロープでつるされ、頭を水がめにつけられ、ペンチで爪を抜かれ―。当局がかけた容疑を認めるまで拷問が繰り返されたという。同様の刑務所が約200カ所あり、約200万人が虐殺された。

 「同じ国民同士で殺し合うことは本当の悲劇」。現地ガイドのピセット・スイーさん(35)は説明の合間にこぼした。1990年初頭まで続いた内戦で埋められた地雷も残る。通りには、手足を失った元軍人の楽団も見られた。「戦後の日本にもね、けがをした軍人がこうして通りにいたんだよ」。視察団の一人、府中工業(広島市南区)顧問の金井捷さん(74)は、かつてを思い出していた。

 内戦の影響は教育にも及び、広島の団体が子どもたちを支援している。両国とも、94年の広島アジア競技大会を機に、広島との交流が続く教育施設がある。

 NPO法人ひろしま・カンボジア市民交流会(中区)がプノンペンに建設している、れんが積み4階建ての「ひろしまハウス」。一部は未完成の施設だが、同会と現地の団体が運営する。ストリートチルドレンなど約60人が小学4年までの勉強を教わる。同国では出生届を出さなければ子どもは公立校に通えない。このため親が手続きを怠ったスレイ・ニャンニさんは11歳だが、ここで小学2年の学習を受ける。「外国語を学び、観光客向けに飲料を販売する親を手伝いたい」

 一方、ラオスの首都ビエンチャンにあるドンデン小。視察団のメンバーが手品を披露すると、5~12歳の児童60人に驚きと笑顔が広がった。広島ラオス交流協会(安佐南区)が門扉設置や校舎の塗装などの支援を続ける公立小。最低賃金の月111ドル(米ドル)を少し上回る程度の収入の家庭の子が多く、筆記用具をそろえるのも難しい。教科書も1クラスに2、3冊あるものをみんなで使う。

 地方の公立校は、環境がさらに深刻だという。家業の農業の手伝いでほとんど通えない子も多い。「両親は行方不明でいない。友だちと冗談を言い合える学校が楽しい」とナムフォン・サンヤシンさん(11)。「中学に進学して国語の先生になりたい」と話す。金銭面の負担が膨らみ、義務教育でもない中学校への進学率は低く、15歳以上の識字率は72・7%となっている。

カンボジア内戦
 ロン・ノルら親米派が1970年にクーデターでクメール共和国を樹立後、極端な共産主義思想を掲げるポル・ポト派との間で内戦が起きた。75年、ポル・ポト派が政権を握ると、知識人や政治犯らを処刑。都市住民を地方に強制移住・労働させた。ベトナム軍侵攻により政権が崩壊した79年までに、約200万人が虐殺や飢餓で亡くなったとされる。その後も内戦状態が続き、91年にパリで和平協定が結ばれたものの、しばらくは戦闘状態だったという。

ラオス内戦
 1953年に仏・ラオス条約により完全独立。周辺の共産主義国と反共産国の間で中立路線を目指すが、米国の支援を受ける政府と、急進的なナショナリズムを掲げる組織パテト・ラオなどが対立し、分裂。パテト・ラオ側をベトナムの共産主義者や旧ソ連が支え、冷戦下の代理戦争の性格を帯びた。73年に首都ビエンチャンで和平協定。隣国でベトナム戦争をした米国は64~73年にラオスにも空爆し、約200万トンの爆弾を投下した。

(2016年3月28日朝刊掲載)

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