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連載・特集

1969年 18歳 <上> 広島から沖縄へ

外圧に抵抗 弁護士の道 高校生の主権 尊重を

 選挙権年齢が18歳以上に6月に引き下げられる。これに伴い、高校生の校外での政治活動が認められた。1969年の「高校紛争」を機に禁止されていた。広島市中区の修道高では校舎バリケード封鎖が起きた。何を求めたのか、今どう考えているのか。「元18歳」の軌跡とともにたずねる。(編集委員・西本雅実)

 三宅俊司さん(64)は、那覇市の法律事務所で地元メディアの問い合わせ電話にも追われていた。「男性は処分保留での釈放です」

校舎封鎖を先導

 沖縄では「新基地建設」と呼ぶ米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設をめぐり、住民訴訟の弁護団を率いる。警視庁派遣の機動隊と建設反対の市民との間で衝突も起きる現場へ定期的に通う。

 「理不尽さに抵抗する。怒りを言葉にする。あのころと重なるところがあるかもしれませんね」。苦笑いを浮かべ、自身が逮捕された18歳のころを語った。

 広島市の生まれ。母は爆心地の約1・9キロで被爆していた。修道中・高に通うころも川べりには老朽住居群が続き、「原爆の傷を身近に感じ」て育った。政治を意識したのは激化するベトナム戦争だった。被爆地でも68年に「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)ができると、制服で先輩らとデモ行進した。

 「のほほん、としていいのか」。部活動の吹奏楽部をやめデモに参加し、呼び掛けもした。69年1月、呉市の米軍広弾薬庫撤去と輸送反対を訴えるデモで先輩1人が逮捕される。学校の処分撤回にも声を上げた。

 「点数で将来を決められる受験教育への不満と相まった」とみる「修道闘争」は、定期試験全廃や制服廃止の要求へと広がる。

 69年10月と11月、南千田東町の校舎の一部を封鎖した。机を積み上げた「生徒20数人」に「機動隊150人」(中国新聞夕刊69年11月10日付)が出動した2回目の封鎖で逮捕される。後輩を先に逃がしていた。10日間留め置かれ不起訴に。

担任 卒業手助け

 卒業には日数が足らず追試に臨むと、クラス担任の数学教師は「理解させるためだよ」と答案を示してくれた。大学は2浪して進んだが中退、上京して司法試験に挑む。テント製造販売業を営む両親はそれまでも責めなかったという。

 30歳で合格し、84年に沖縄へ移った。基地問題のみならず、72年返還の前は援護から放置された被爆者の訴訟を手掛けた、故金城睦(きんじょうちかし)弁護士の下で働いた。

 87年の沖縄国体で起きた「日の丸旗焼却事件」の主任弁護を引き受けて独立。本土が見ようとしない数々の現実に「主権を支えるのが務め」と立ち向かう。2008年から1年間、沖縄弁護士会長を担った。宮古島出身の千惠子さん(52)との間にもうけた2女1男の父でもある。

 年2万回の離着陸に及ぶ普天間飛行場を経て辺野古へ向かう車中、「18歳選挙権」をこう捉えた。

 「主権者と認めながら政治活動を制限するのは間違い。私らは性急だったが、若者が議論を深めることを恐れず見守ればいい」。事務所には、卒業を手助けしてくれた数学教師が作った切り絵の仏像を飾っていた。

(2016年3月29日朝刊掲載)

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