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連載・特集

緑地帯 「原爆の図」の旅 岡村幸宣 <5>

 丸木夫妻の「原爆の図」より前に描かれ、発表された原爆の絵がなかったわけではない。しかし、占領下にこれほど大々的に被爆した人間の姿を伝え、核の恐ろしさを伝えた視覚表現は、「原爆の図」が初めてだった。

 巡回展が始まった1950年には、朝鮮戦争が始まっている。広島・長崎に続き「第三の原爆」が使用されるのではという危機感もあった。米国とソ連の核開発競争も本格化していた。「原爆の図」は「過去」の記憶にとどまらず、「未来」への警鐘でもあった。

 51年7月には、京都大の学生たちが専門分野を生かして多角的に原爆を解説するパネルを作り、「原爆の図」とともに展示する「総合原爆展」を開催した。影響は全国の学生たちに広がった。やがて同時に複数の会場で展覧会が企画され、「模写」として再制作した作品まで貸し出された。

 占領軍は巡回展を追跡し、札幌では会場責任者が逮捕される事件も起きた。直後の巡回先である函館の百貨店は「これで(話題になって)もうかるのです」と歓迎し、実際に大入り袋の出る盛況となった。地方の農村では、絵の前で手を合わせて拝む老人もいた。一般的な「絵画」の枠を超えて、「原爆の図」の受容は広がっていく。詩や幻灯、映画、交響曲なども作られた。今で言うメディアミックスのような状況になった。

 やがて「原爆の図」は海を渡り、世界20カ国以上を旅して回った。「原爆の図」ほど数多くの街や村で展示された絵画は、他にないだろう。(原爆の図丸木美術館学芸員=埼玉県)

(2016年3月30日朝刊掲載)

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