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連載・特集

1969年 18歳 <下> 「あの頃」から

「無頼」胸に 広める歌曲 試される大人の度量

 松本憲治さん(64)は、東京芸術大を卒業すると組織に属さず、作曲編曲や指揮活動を広島で続ける。クラシックやオペラの楽しさを根付かせようと努める。

 「無頼の精神というか自由に考える、生きる。それが大切だと思うようになったのは…」。廿日市市の自宅で詩集も収める書棚から1970年の修道高卒業アルバムを取り出した。

分かれて卒業式

 運動会では、中国の文化大革命から広がったスローガン「造反有理」の看板が立つ。学年の集合写真は、めいめいが好き勝手なポーズをとる。同期の約450人は紛争を間近に体験し、3クラスずつ3日間の「分散卒業式」となった。

 在学中は、過去に全国制覇6回のサッカー部に入り1年生で埼玉国体に出場した。だが2年生になると退部し、ギターを手にする。反戦フォークで知られた、ピーター・ポール&マリーなどの歌をかき鳴らした。平和記念公園で仲間と「フォークゲリラ」のまね事もした。既成の平和運動は物足らず「非戦」の意思を全身で表現したかった。

 「政治的にとんがった連中のアジ演説はギャグとしても見ていたけれど、ある種の連帯感は多くの生徒にあった」という。69年の校舎バリケード封鎖は、友人から「やるぞ」と打ち明けられたが、自分の考えを選んだ。クラシックを学ぼうと思うようになっていた。音符も読めなかったがピアノ練習に通い始めた。

 69年に噴き出た「高校紛争」は、「はしかのようなもの」とも酷評された。当時、四年制大学への進学率は15・4%にすぎなかった。修道高でいえば、ほぼ全員が進学していた。受験教育も弁舌鋭く批判した異議申し立ては、自己否定でもあった。学生運動が混迷に陥るなか、高校生の政治的な動きもしぼんでいく。

 松本さんは、東京の放送局などでアルバイトしながら3回目の受験で芸大合格をつかむ。声楽科を専攻して作曲も学んだ。「音楽の素晴らしさを知ったからこそ権威に埋没せず、芸術文化を市民のものにしよう」と、恋愛結婚の伴侶を伴い古里に戻った。

 「ひろしまオペラルネッサンス」「はつかいち平和コンサート」…。行政の背中も押して90年代からはプロ・アマの垣根を越えて奏で歌う活動にも取り組む。

 そして還暦が近づくなか広島在住の同期と語り合い、できなかった「合同卒業式」を呼び掛けた。2010年夏、全国から約130人が母校に集った。

「若く鋭い感性」

 バブル経済の浮沈も体験した同世代の多くが、「経済至上主義にのみ込まれてしまった」とも松本さんはみる。だが、こう続けた。

 「稚拙であっても僕らはあの頃、純粋に真剣に考えた。社会の矛盾やきな臭さを鋭くかぎとる若い感性をどう受け止めるか、大人の度量が試されている」

 選挙権を手にする「18歳」と自身ら「元18歳」へのエールでもある。(編集委員・西本雅実)

(2016年3月31日朝刊掲載)

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