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社説・コラム

<評伝> 居森清子さん 病魔と闘い被爆証言

 爆心地から約410メートル、広島市の本川国民学校(現中区の本川小)で被爆した児童で唯一の生存者となった女性が逝った。2日に横浜市内で死去した、居森(旧姓筒井)清子さん。重複がんに襲われながらも証言活動に取り組んだ。82歳まで生き抜いた。

 「私が生かされているのは、原爆の恐ろしさを一人でも多くの人に伝える使命があるから」。病床にあっても気丈にそう語った。

 1945年8月6日、6年生の清子さんは、鉄筋校舎1階の靴脱ぎ場にいた。薄明かりが差すとそばを流れる本川へ同級生らと逃げる。一面は火の海。死体が次々と流れる川に、ただただ漬かっていたという。

 少なくとも218人が即死した(「広島原爆戦災誌」)本川児童で1人だけ助かったが、両親と弟は原爆死した。中学を出ると美容院で住み込み働き。友達の親族を頼って横浜へ移り、家庭をもうけた。

 ところが40歳で腫瘍が見つかり、甲状腺がん、大腸がん、髄膜腫に襲われる。広島大名誉教授の鎌田七男さん(79)が続ける爆心地500メートル以内の「近距離被爆生存者」の総合調査によると、清子さんが浴びた放射線量は半致死を超す4・9シーベルトと推定された。

 病魔を抱えた70歳を過ぎ、神奈川県や東京都内の学校、集いで証言をするようになった。共にクリスチャンでもある夫の公照(ひろてる)さん(80)が付き添った。3年前に自宅で寝たきりとなるとインスリン注射から食事、おむつ交換をこなした。夫婦は2回の流産も乗り越え、二人で五十数年間を支え合ってきた。

 3月23日に「本人も戻るつもりで」入院し、危篤に陥る。広島から駆け付けた鎌田さんが声を掛けると、気力を振り絞ったという。

 清子さんの遺体は4日、病理解剖された。

 「私の体を最期も調べ役立ててほしい」と言い残していた。核兵器の非人道性を身をもって伝え、苦難に屈しない人間の強さも示した生涯だった。(特別編集委員・西本雅実)

(2016年4月5日朝刊掲載)

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