×

社説・コラム

『論』 ハンセン病特別法廷 憲法に照らし検証続けよ

■論説主幹・佐田尾信作

 日本有数の温泉地に知られざる「地獄」があった。群馬県草津町の国立ハンセン病療養所栗生楽泉園(くりうらくせんえん)。そこで敗戦直後まで懲罰房として使われていた「重監房」のことである。一昨年訪ねた時は往時を室内に再現した資料館が開館したばかり。それは高いコンクリート壁で仕切られて暗く狭く、風光明媚(めいび)な草津白根の山々とはあまりにもそぐわない空間だった。

 表向きは「特別病室」だが、実態は戦時下に「不穏分子」を全国の療養所から送り、23人が命を落とした。やがて社会党などが連立した片山哲政権時代の1947年に国会調査団が不当な処遇を暴き、直ちに廃止されている。

 だが追及した議員も追及された国も、ハンセン病のための特別な裁判所や刑務所は必要だという認識では一致していたようだ。事の本質は見過ごされ、誰の責任も問われなかった。その事実関係は宮坂道夫著「ハンセン病重監房の記録」(集英社新書)に詳しい。

 こうして楽泉園の特別病室は閉じられた一方で、「特別法廷」という名の隔離裁判は48年から72年まで全国で続けられた。長島愛生園や邑久光明園(いずれも瀬戸内市)での開廷を含め、95件に及んだことが今は判明している。

 特別法廷を許可したのは最高裁だ。最高裁が必要と認めた時は裁判所の外で法廷を開くことができる裁判所法の規定もあるが、ここ数年の内部調査や外部有識者委員会の意見などを踏まえ、「手続きに不適切な点があった」として元患者に近く謝罪するという。

 しかし、この特別法廷には手続き論では済まない問題が残されている。「感染の恐れ」を理由に一律に運用されていた点で、有識者委が指摘するように憲法違反の疑いが拭えないからだ。裁判所で裁判を受ける権利(32条)や公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利(37条)などを著しく侵害していたのではなかろうか。

 中には裁判を所内で告示したり傍聴者がいたりしたケースもあったようだ。ただ多くの場合、市民が自由に傍聴できたのかどうか。熊本県合志市の菊池恵楓(けいふう)園の隣にはかつて菊池医療刑務支所があり、ここでもたびたび開廷されたが、施設の性格上、裁判が外部に開かれていたとは思えない。

 愛生園や光明園も、88年の架橋までは孤絶した離島という地理的条件にあった。とりわけ愛生園では、入所者の外出や他園の入所者の来訪に当局は神経をとがらせていたと、入園者自治会史「曙の潮風」に書き留められている。

 一方最高裁は「裁判官の独立」の原則を盾に個別の裁判の内容には立ち入らないと伝えられるが、それも疑問である。菊池医療刑務支所の特別法廷で被告が死刑を宣告された「菊池事件」(62年執行)のように、今なお再審請求の動きのある事件もある。再審に応じた場合には特別法廷が審理の公正さにどのように影響したか、検証することにもなるはずだ。

 90年に及ぶ隔離政策を支えた「らい予防法」が廃止されてことしで20年になる。熊本地裁判決で隔離政策が違憲と判断され、当時の小泉純一郎首相が控訴断念を表明して15年の歳月が流れた。

 私たちは45年の敗戦や翌年の憲法公布をもって戦前と戦後を区切ってしまう。だがハンセン病の人たちの「戦前」はそれよりはるかに長く続いたことになろう。

 内田博文著「ハンセン病検証会議の記録」(明石書店)によると、戦後の入所者自治会では新憲法をこぞって学び、憲法が保障する基本的人権に目覚めたという。しかし隔離政策は緩和されるどころか、時の吉田茂首相は「公共の福祉」を持ち出して「癩(らい)予防法(旧法)」は憲法に抵触するとは考えない、と国会答弁している。ゆえに新法の「らい予防法」も、本質は変わらなかったのだ。

 全国13療養所の入所者約1600人の平均年齢は83歳を超す。特別法廷を含む司法の上の人権侵害をあらためて憲法に照らし、真相の追及と名誉回復のための検証作業が急がれなければなるまい。

 当事者の最高裁はその先頭に立つべきだ。マスメディアも負の歴史の記憶を風化させないよう、後押しする必要があるだろう。

(2016年4月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ