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痕跡 71年前の語り手 広島の原爆資料館 進む発掘調査 長崎市も重視 保存や展示

 被爆地の地中には、あの日の爪痕が今も刻まれている。原爆資料館(広島市中区)の本館敷地で進む市の発掘調査では、壊滅した町の跡や生活品が相次いで出土。人々の営みを一瞬で断ち切った原爆の惨状が浮かび上がる。足元に埋もれてきた71年前の「記憶」。その掘り起こしは、長崎市でも重視されつつある。(林淳一郎)

 土の断面に赤黒く焼けた層が続く。原爆資料館の免震工事に先立ち、昨年11月下旬から始まった発掘調査の現場。熱線で溶けたガラス瓶や焦げたしゃもじなどが見つかり、建物の縁石や下水管、アスファルトの舗装路も姿を現した。

 爆心地の南西約400メートルの旧中島地区。原爆投下まで民家や銭湯、理髪店、幼稚園が立ち並び、市民の日常があった。被爆後に掘られたとみられる穴からは、復興に踏みだそうとした跡なのか、寄せ集めた瓦片や三輪車の一部も出土した。調査面積は約2200平方メートル。これまでに4割ほどを終え、今月以降も続く予定だ。

 「人々が積み重ねた暮らしが、戦争、そして原爆でどうなったか。証言や写真からもたどれるが、発掘では直接、目の当たりにできる」。調査を担う市文化財団の荒川正己主任学芸員はかみしめるように話す。

大規模開発免れる

 明治時代に旧陸軍の第五師団が置かれ、国内有数の軍都としても栄えた広島市。その近現代史をたどる手掛かりとなる地中の痕跡は、戦後の都市開発で多くが失われたとみられるが、旧中島地区一帯は、平和記念公園(12・2ヘクタール)として整備された1950年代以降、大規模な開発を免れてきた。

 99年度、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の建設時に、被爆した病院や商店の基礎が出土。一帯に原爆の痕跡などが埋もれている可能性は高く、公園内は「遺跡の有無を確認する必要がある区域」(2002年「広島市遺跡分布地図」)になっている。

 もう一つの被爆地長崎市では14、15年の夏、爆心地の西約500メートルの城山小校庭を発掘した。原爆犠牲者が火葬された場所。市被爆継承課によると、古い写真や航空測量でエリアを絞って発掘し、炭化した土の層や骨の組織を確認したという。

 長崎ではこのほか、90年代に爆心地近くの河川工事で被爆瓦や焦げた木片を含む地層などが出土。一部を現地で保存・展示している。「地中の遺跡も大切な語り手」と同課。城山小校庭の発掘であらためてクローズアップされた。

「現場で説明会を」

 ただ、広島市の原爆資料館敷地の発掘では、被爆瓦などの出土品は保存されるものの、町並み跡の大半は詳しく記録した後、免震工事で姿を消す見通しだ。

 元同館館長の原田浩さん(76)=安佐南区=は「発掘現場で市民への説明会を開いてほしい」と願う。6歳の時、広島駅で被爆。原爆投下前の旧中島地区を親と歩いた記憶もある。「原爆で一瞬のうちに消えた町の跡と向き合う意味は大きい。できるだけ残し、目に触れられるような工夫の余地はないだろうか」と話している。

(2016年4月8日朝刊掲載)

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