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連載・特集

グレーゾーン 低線量被曝の影響 第2部フクシマの作業員 <下> 健康調査の行方

科学的解明 期待と課題

 東京電力福島第1原発事故が2011年に発生して以来、多くの作業員が事故収束や廃炉に向けた作業に従事している。中でも、同年12月16日までに現場に入った「緊急作業従事者」2万人は、政府による長期間の健康管理に加え、放射線被曝(ひばく)の影響を探る疫学的研究の対象となっている。担うのは、被爆者の調査で経験を蓄積してきた放射線影響研究所(放影研、広島市南区)である。グレーゾーンである低線量被曝の健康影響がどこまで科学的に解明できるのか。数十年を要するであろう取り組みの前途に、期待と課題が横たわる。(金崎由美)

放影研2万人調査「広島・長崎の知見生かす」

返事なし4割 対象者の協力不可欠

 福島県いわき市にある「いわき好間コミュニティ健診プラザ」に、健康診断を受ける男性が次々と姿を見せた。福島第1原発事故の「緊急作業従事者に対する疫学的研究」に協力する全国70の労働衛生機関の一つである。

 血圧測定と血液採取、聴力検査、心電図…。健診項目を終えた同市の大西泰紀さん(44)は「放射線の影響を受けやすい甲状腺のエコー(超音波)検査もあるから受診に同意した」と話した。事故から約3週間後、3号機と4号機の約30メートル先まで近づいた。喪失電源を仮復旧させる作業。がれきをよけながらケーブルを引き、約50ミリシーベルト被曝した。「混乱していた時期。線量計の故障もあったから、実際はもう少し高いかもしれない」

 事故直後から9カ月後の12月16日まで、政府は被曝限度を100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに緊急的に引き上げた。2万人が過酷な現場に投入され、うち東電社員を中心に174人の被曝線量が100ミリシーベルトを超えた。厚生労働省は、2万人全員を「緊急作業従事者」として健康管理のため住所や線量などをデータベース化するとともに、疫学的研究に生かすことを打ち出した。委託された放影研が2015年度から本格実施に入った。

 被爆者の研究を通して、被曝とがんの発症に関係があることが分かってきた。一瞬ではなく、じわりと被曝する原発事故ではどうか―。「広島と長崎での知見を生かし、福島でも貢献することはわれわれの責務だ」。研究を主導する放影研の大久保利晃前理事長は力を込める。健診データが全国から届く放影研の一室に日本地図が張ってあり、作業員の所在地を示す赤点が全国に散らばっている。

 放影研は被爆者の「成人健康調査」で、対象者に健診を受けてもらい、採取した血液などの生物試料を解析している。そのノウハウが今回の疫学的研究の土台となっている。線量計も正確な被災者名簿もなかった70年前と比べると、データの精度は高くなる。大久保さんは「100ミリシーベルト以下の低線量における健康影響が、見えてくるかもしれない」と期待する。

 だが、被爆者調査にはなかった課題もあり、放影研と全国の健診施設は苦心している。

 今も数カ月周期で全国の原発を渡り歩く人が少なくなく、所在地の把握や、数カ月先の予定を見越した健診予約は容易ではない。最寄りの健診施設までの交通費は支給しているが、「仕事を休む分の日給も補償されるか」と問われる。放影研は健診への協力を求める書類を対象者に郵送しているが、まだ約4割の8千人から返事がないという。粘り強くアプローチを続けるしかない。

 東電の協力会社の社員、塚本春彦さん(55)は「誰も経験したことのない事故だけに、健康影響研究には協力すべきだと思った」と理解を示す。同時に「会社の定期健診などもあり、いくつも受診するのを面倒がる人は多い」と指摘する。

 被爆者調査を巡って、かつては「研究すれども治療せず」などと反感も買った放影研。「研究成果を、再び被害者を出さないために生かして」という被爆者の理解を得るのに長い時間を要している。原発作業員の納得と信頼を得るための努力は、これからだ。

異なる見解

放射線影響協会 「死亡率に影響を及ぼすとの結論出せない」
国際がん研究機関 「100ミリシーベルト以下でもリスクがごくわずか上昇」

 原発作業員らの疫学調査は、原子力の平和利用を推進する一環で放射線影響に関する研究や啓発をしている放射線影響協会(放影協、東京都千代田区)も実施している。

 福島第1原発の緊急作業従事者に絞って健康状態などを追う放影研の疫学的研究と違い、こちらは1990~98年までに登録された20万人のがん死亡を追跡する。原子力規制委員会からの委託研究である。

 調査対象者を含む全ての原発作業員の被曝線量は、登録管理制度に基づき協会内の「放射線従事者中央登録センター」で一元的に記録されている。そのデータを生かし、98年以降も原発で働き続けている人の追加被曝線量も考慮しながら統計的な解析をしている。

 5年ごとに報告書を作成しており、2010年までの解析結果を昨年春に公表した。「肝臓がんなどは被曝線量との関連が一見あるようだが、喫煙などの要因が入り込んでいる可能性が高い。低線量域の放射線が死亡率に影響を及ぼしていると結論付けることはできない」とした。

 同協会の放射線疫学調査センターの笠置文善センター長は、放影研で疫学部副部長を務めた経験を持つ。「他国でも原発作業員の疫学調査はあるが、われわれの調査はがんに大きな影響を及ぼす喫煙や生活習慣の影響をしっかり考慮している」と強調する。

 対象者のうち7万5千人にアンケートを実施したところ、被曝線量が高い人は喫煙者でもあるケースが多いという傾向が分かった。より正確な解析のため、生活習慣の聞き取り対象を20万人のうち現在も生存している人全員に広げようと、昨年度から電力会社や原発で説明会を開いている。やはり、どれだけ協力を得るかに頭を悩ませている。

 一方、海外では、放影協とは違う研究結果も出された。国際がん研究機関(IARC、本部フランス・リヨン)は、米国、英国、フランスの原発などの作業員30万人を対象に1944年から続ける追跡調査の結果を昨年相次いで公表した。被曝線量が100ミリシーベルト以下でも白血病のリスクがごくわずか上昇するとした。固形がん死亡のリスクについても、同様の結果を導いた。

 大規模な集団を観察し、罹患(りかん)率や死亡率の小さな変化を探る疫学調査。長い時間と予算を投じても、明確な結果が得られないことがある。どちらの研究が実態を反映しているのか、国際的な議論になっている。

疫学調査 被爆者ら対象 50年代から継続

 病気や伝染病などについて、はっきりとした原因や発生条件、発生率が分からない時、地域や職業、習慣などで集団に分け、統計的な手法を用いて比較しながら明らかにしようとするのが疫学調査である。

 放射線関連で最も知られているのは、放影研が1950年代から続けている疫学調査だ。被爆者と、非被爆者(入市被爆者を含む)の計約12万人を対象にし、原因別の死亡率の違いを比べるのが寿命調査。被爆者に隔年で問診や健診を受けてもらう成人健康調査も実施している。

 被曝線量が高いほど、また若い時の被曝ほど、白血病や肺、胃、大腸などの固形がんのリスクは高まることが分かっている。

 放射線と病気との関係の全容解明は、息の長い調査なしには不可能だ。爆心地から1・5キロ以内で被爆した人は、白血病の前状態とされる骨髄異形成症候群(MDS)の発症率も高まることが明らかになってきたのは、数年前のことだ。

 被爆者調査の結果は、放射線防護基準の根拠とされるなど、世界的に活用されている。だが、そのデータをもってしても、100ミリシーベルト以下の低線量被曝の場合の影響ははっきりしない。空気や水、食べ物に混じって体内に放射性物質を取り込む「内部被曝」の影響など、さらに研究すべき分野は依然残されている。

(2016年4月15日朝刊掲載)

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