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Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第31号) 平和を祈る三滝山

 広島市の中心部を囲むように連なる山々は、原爆が落とされた時、多くの人たちが逃(に)げて来ました。爆心地から北西に2・5~3・5キロほど離れた三滝(みたき)山もその一つ。ふもとにあった山手川(現太田川放水路)には、途中(とちゅう)で力尽(ちからつ)きた人たちの遺体が浮(う)かんでいました。また、強烈(きょうれつ)な爆風の影響を受けて屋根が飛んだり、自然発火したりしました。

 この三滝山には、被爆建物や慰霊碑(いれいひ)が多くある三滝寺、戦後、平和記念公園になった中島地区から移転してきた誓願(せいがん)寺、原爆で一家全滅(ぜんめつ)するなどして行き場のなくなった原爆無縁(むえん)墓地、核兵器廃絶を願って米ニューヨークに渡った親鸞(しんらん)聖人像の台座などがあり、平和を祈る山としても知られています。頂上からは市街地が一望できる三滝山。皆(みな)さんも、平和な世界の実現に向けて思いをはせながら歩いてみませんか。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学1年から高校3年までの39人が、自らテーマを考え、取材し、執筆しています。

紙面イメージはこちら

被爆の記憶 色濃く宿す

三滝寺

建物や石碑に刻まれた惨禍

 三滝寺には、広島市に登録された五つの被爆建物と多くの慰霊碑があります。本堂は屋根が飛ばされるなど爆風の影響を受けて再建されましたが、鎮守(ちんじゅ)堂や想親観音堂などは残っています。中でも三鬼(さんき)権現堂は今もゆがんだまま。中で座ると実感できるそうです。

 戦後すぐに建てられた「本坊(ほんぼう)」には、原爆で一部が焦(こ)げた竹が使われています。三滝山での被害(ひがい)を伝えようと、当時の住職が使いました。

 あの日、三滝山の木々は原爆で自然発火。黒い雨が降って鎮火(ちんか)したそうです。三滝山のシンボルである滝の水は黒くなりました。2日後ごろから避難(ひなん)する人が集まり、被爆15年後ごろまでいた人もいました。

 寺にある慰霊碑の数は分かりません。住職の佐藤元宣(げんせん)さん(59)は「ここは山の中で涼しく水が豊富。夏の暑い中、水を求めて亡くなった人を供養するのに好まれているのではないか」と話します。滝の水は、原爆の日に平和記念公園(中区)の慰霊碑に供えられる献水に使われています。

 入り口近くの多宝塔(たほうとう)(県重要文化財)は1951年、関西に住む広島出身の人たちにより、原爆犠牲者の供養のために和歌山県内の神社にあったものを移しました。原爆投下から三十三回忌(かいき)を機に、俳句と短歌を刻んだそれぞれの句碑、歌(か)碑、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)によるアウシュビッツ犠牲者の碑もあります。(高3岡田春海、中2川岸言織)

親鸞聖人像跡

焼けただれ今はNY

 三滝山を少し上がると親鸞(しんらん)聖人像の跡(あと)があります。関西で鉄工業を営んでいた広瀬精一さんが、幼いわが子を亡くしたのを機に1937年に建てました。浄土(じょうど)真宗の信者が多い広島が設置場所に選ばれました。高さ約4メートルの大きな像です。

 45年8月6日。広島市中心部の方を向いて立っていた像は、正面から原爆の熱を浴び、焼(や)けただれました。

 その後、ノーモアヒロシマを世界に訴(うった)えるために55年、ニューヨークの本願寺仏教会に移されました。今も現地の人に、平和の大切さを伝えています。(中1森本柚衣)

陸軍病院三滝分院

負傷者応急治療の場に

 陸軍病院三滝分院は1937年に始まった日中戦争に合わせて山手川沿いに建てられました。原爆投下の際には、応急治療所が設けられた、といわれています。47年に取(と)り壊(こわ)されました。

 分院があった場所は現在、太田川放水路になっています。洪水(こうずい)が度々起こっていた山手川と福島川を一つの広い川にすることが32年の国会で決まりました。2年後に工事が始まりましたが、戦争のため中断。35年の年月をかけ、67年に完成しました。(高3中原維新)

ふもとに住む土井さん

自宅ゆがみ近所で火災

 三滝山のふもとに住む土井史郎さん(80)は150年以上前の江戸時代に建てられた自宅に生まれ育ち、今も暮らしています。原爆が落ちた時、家は爆風(ばくふう)で瓦(かわら)や障子などの建具が飛び、天井(てんじょう)が落ち、家全体もゆがみました。蔵は、開いていた扉(とびら)から爆風が入って壁(かべ)が膨(ふく)らんだそうです。

 土井さんは当時、大芝(おおしば)国民学校4年生。山手川東側にあった三滝町の青年会館に通って授業を受けていました。8月6日、かくれんぼで鬼(おに)になって100を数えていた時、空にB29が見え、ピカッと光りました。気付いたら10メートルぐらい飛ばされ、頭にはガラスの破片が刺(さ)さっていました。

 家に戻(もど)っても中がぐちゃぐちゃで入れません。地区には30軒(けん)足らずの民家がありましたが、土井さんは、少なくともかや・わらぶき屋根の7軒が燃えているのを見ました。

 三滝には、広島市中心部からたくさんの人が水を求めて逃(に)げてきました。土井さんの家の前を流れる山手川は水が少ししか流れていませんでしたが、遺体がいっぱい浮(う)いていました。陸軍の兵士が棒で引っかけ上げて、河原で油をかけて燃やしていたそうです。(高1岩田央)

誓願寺

破壊され移転 墓地に無縁塔

 誓願寺は、今は平和記念公園(広島市中区)になっている材木町にありましたが、原爆がきっかけで移ってきました。寺の墓地には、原爆で一家全滅(ぜんめつ)するなどで行き場所のなくなった骨が納められた無縁塔(むえんとう)があるほか、被爆した水盤石(すいばんせき)は今も使われています。

 誓願寺は爆心地から約400メートルの所にあり、跡形(あとかた)もなく破壊(はかい)されました。戦後、跡地(あとち)に平和記念公園が造られることになったため、寺にあった2500前後の墓のうち、200~300を広島市の提案で三滝に移転したそうです。檀家(だんか)たちの寄付によって、元あった場所の少し南(中区中島町)に仮本堂が建てられましたが、墓に近い方がいい、と1963年に今の場所に再建されました。

 境内には川内村(現安佐南区川内)の人たちをまつる原爆供養塔もあります。45年8月6日朝、川内村から建物疎開(そかい)作業で市内へ出ていた人々が誓願寺で休憩(きゅうけい)していた時に被爆して亡くなったため、51年に建てられました。寺が移転する際も一緒(いっしょ)に移しました。(高2山本菜々穂)

(2016年4月21日朝刊掲載)

【編集後記】

 今回の取材で一番印象に残っているのは、建物の一部として残っている竹です。初めその竹のことを聞いたとき、どのくらいの被害を受けたのか、どのようにして使っているのか、想像がつかなかったからです。実物を見ると被害の跡がよく見えました。私はこの原爆の竹のように、読んで一目で分かってもらえるような記事を書いていきたいです。(川岸織)

 誓願寺を取材して最も印象的だったのが被爆した水磐石です。頑丈な岩が欠けるほどの爆風やそれが焦げるほどの熱線といった原爆の威力の恐ろしさをあらためて感じました。(山本)

 僕は今回の三滝の取材でたくさん歩きました。歩くことで当時被爆された人はどんな気持ちだったのかを想像できました。三滝寺では山の中腹から市街地を眺め、この広大な土地が70年前には焼け野原だったことはやはり信じ難い現実なのだと感じました。(中原)

 私は今まで三滝山に行ったことがなかったため爆心地から離れた所にあると思っていました。なので竹が焦げた話を聞いた時はとても不思議でした。しかし実際に三滝山に登って景色を見てみると、思ったより爆心地が近くにあることが分かりました。普段は証言を聞いたり本を読んだりして被爆の被害や脅威について学んでいますが、実際にその土地に行ってみるとより一層深く考えることができると分かりました。(岡田春)

 戦後10年しか経っていなかったのに原爆の被害にあった親鸞聖人像を原爆を投下した米国に移したことに私はとても驚きました。そして、「ノーモアヒロシマ」を世界に訴えるためという理由に共感しました。被爆物を外国に置くということは世界の人に少しでも多く原爆の恐ろしさを知ってもらえるからです。親鸞聖人像にはこれからも原爆の恐ろしさをいろんな人へ伝えていってほしいです。(溝上藍)

 僕は誓願寺と土井さんの取材に参加しました。僕の「三滝に住んでいて良かったですか?」という質問に、土井さんが「三滝で生まれ育ったから、三滝に住んでいて良かったとは思わない」と言っていたのが印象に残っています。好きで三滝で生まれ育った訳ではないけど、やっぱり三滝が自分の故郷なんだと言ってるように感じて、とてもロマンチックだと思いました。(岩田央)

 ニューヨークに渡った親鸞聖人像が、広島の原爆と米国のニューヨークであった同時多発テロの両方の被害に遭ったことに驚きました。ニューヨークの人たちに、少しでも平和について考えてもらえるように頑張ってほしいです。(森本)

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