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連載・特集

緑地帯 フィリピンと加納莞蕾 加納佳世子 <2>

 戦後、フィリピンに収容されていた日本人戦犯を赦(ゆる)すよう、当時のキリノ大統領らに嘆願書を送り続けた加納莞蕾。その考えは、戦犯が己の罪を自覚することが前提であり、「戦争の罪を理解した人こそ平和を築く人になり得る」というものだった。

 莞蕾は画家であった。芸術には国境はない、平和を求める画家として言わなければならないことがある、との信念だった。

 生まれは1904(明治37)年。島根県布部村(現安来市広瀬町布部)の農家の長男である。父親は農家でありながら、一時は法律家を志して上京、明治法律学校(明治大の前身)で学んだという。仏教哲学や社会主義にも強い関心を持っていたようで、莞蕾は「父には大きな影響を受けた」と後に書き残している。

 幼い頃から絵が好きだった莞蕾は、島根県師範学校に進学し、油絵に親しむようになる。父が亡くなったために学校は中退するが、教員養成所を経て尋常小学校訓導となった。

 しかし、絵を描きたい気持ちを抑えきれず、上京して本郷洋画研究所などで学ぶ。岡田三郎助を師とし、多くの仲間を得た。若い画家を中心に独立美術協会が発足する頃。家庭の事情で帰郷することにはなるが、31(昭和6)年に始まる独立展に島根から毎年出品している。

 その後、33歳で朝鮮へ。海の向こうで画家として才能を開花させようとした。「五月波よせかえせ我さすらわず」。どんな波が押し寄せようと自分の道を迷うことはない、との句を詠んでいる。(加納美術館名誉館長=安来市)

(2016年4月28日朝刊掲載)

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