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連載・特集

緑地帯 フィリピンと加納莞蕾 加納佳世子 <4>

 加納莞蕾がフィリピンに向けて戦犯恩赦の嘆願活動を始めたのは、同じ島根県出身の元海軍少将古瀬貴季が1949年、マニラの軍事法廷で死刑判決を受けたのがきっかけだった。

 それに先立つ45年、朝鮮から郷里へ引き揚げてきた莞蕾は、松江地方海軍人事部で戦後処理の仕事をしていた。そこで出会ったのが古瀬である。特攻も敢行した激戦地フィリピンで司令官だった彼は、戦争末期の日本軍のモラル荒廃を嘆き、「未来ある青年を死に追いやったことを日本国民は十分に反省しないといけない。私の罪は万死に値する」と話した。初めて会った彼の言葉の一言一言が胸に響いたという。

 古瀬は戦犯指名を受けて東京・巣鴨に向かうのだが、荒島駅(安来市)で見送る莞蕾に「私はフィリピンに行き、もう帰ることはないでしょう。助命嘆願などは決してしないでください」と言い残す。その潔さに、莞蕾は「どうぞお気を付けて」としか言えなかったという。

 実際に古瀬はマニラの法廷で、「われに罪あり」と堂々と責任を認めた。それを知った莞蕾は、古瀬のような人物こそ、これからの世に必要ではないかと思えてきたのである。

 平和に向けての思想を築くなら、古瀬を失ってはならないとの思いが強くなっていった。49年3月23日、古瀬に銃殺刑が言い渡されると、1週間後には幼子を連れて上京する。駅での「遺言」に背くことになるが、手探りでの嘆願活動の始まりであった。同伴した幼子が私である。(加納美術館名誉館長=安来市)

(2016年4月30日朝刊掲載)

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