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連載・特集

緑地帯 フィリピンと加納莞蕾 加納佳世子 <5>

 1949年春、加納莞蕾は戦犯恩赦の嘆願活動のために上京した。島根県出身の代議士ら心当たりの人を訪ねては、「フィリピン大統領に自分の思いを伝えたい」と相談して回った。

 「おそらく見込みはないぞ」と言いながらもフィリピン代表部(大使館の前身)のベルナベ・アフリカ公使を紹介してくれたのが、雲南市出身の官僚で後に参院議員になる小瀧彬だった。嘆願活動のありがたい入り口になった。フィリピン代表部は東京・銀座のビルにあり、莞蕾はそこで画家として公使の肖像画を描くことで、端緒をつかもうとしたのだ。

 英訳した嘆願書はポケットにある。しかし、思い切って渡すことがなかなかできない。絵の仕上がりが近くなった頃、若い秘書の女性と会話する機会があった。莞蕾が「私は大統領に手紙を出したいのだが、出してもいいだろうか」と口にすると、彼女は「なぜ、そんなことを聞くのですか」と問い返してきた。

 「大統領は偉い人だ。私は貧乏で名もない絵描きだ」と莞蕾。彼女は驚いて「日本では、貧乏な人が偉い人に手紙を出すと処罰でもあるのですか」。莞蕾は「民主主義を唱えてきたはずの自分の現実を彼女に教えられた」と後に話している。

 49年6月3日、最初の嘆願書を郵便局から投函(とうかん)した。2通目を書く頃、キリノ大統領は妻と子ども3人を日本兵に殺されていたことを知る。

 戦犯の助命嘆願が、どれほど虫のいい願いか―。思い悩む父の姿が私の遠い記憶にある。(加納美術館名誉館長=安来市)

(2016年5月3日朝刊掲載)

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